統合失調症と誤診される霊障の例

統合失調症と誤診される霊障の例

 

除霊を掲げているお寺や神社の一覧は、こちらのページです。

 

 

このページの目次

 

 

霊感があり、「死んだ人や霊が見えたり、音が聞こえたりする」という場合

 

霊感があり、「死んだ人や霊が見えたり、音が聞こえたりする」という場合、精神科医は「幻覚や幻聴が発生するため統合失調症(または解離性障害)である。」と診断し、投薬治療となります。

 

「私の知識不足のため、診断を下すことができず、保留しか出来ません。そのため薬も出せません。」と言うことは無いです。

 

そもそも、トップページで述べましたが、アメリカの精神疾患の診断基準のDSM-5では解離性同一性症の説明で「憑依」が記載されている。

 

WHOの、ICD10(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)では「F44 解離性/転換性障害」にPossession trance disorder(憑依トランス症)が有る。そこでは、「憑依とは”自分の意識”が神、魔、霊などの影響下に置かれる」とある。

 

医学情報書のMSDマニュアルでは解離性同一症の「憑依」として、「人格は通常は外部の主体/超自然的な存在/霊魂」「超自然的な存在(しばしば悪魔または神)である場合もあり、過去の行為に対する罰を求めてくることがある。」と記載がある。

 

よって、精神医学でも霊や憑依は、記載されている既知の事なのだが、日本の精神科医は知ろうとも理解しようともしない。

 

また、医師は霊や憑依の場合に誤診するが、さらに他の「幻覚や幻聴」を起こす要因においても誤診する。

 

幻覚や幻聴を起こすのは、脳腫瘍、感染症、認知症、野草、きのこ、発達障害、疲労を始めとして、多くの原因が有ります。

 

また、他のページで紹介したように精神科医が、身体疾患を精神疾患と誤診してしまった事例も参照してみてください。

 

精神科医はこれらの原因にも到達できません。

 

もはや精神科医は、物事を深く追求することも、責任を持つことも、倫理観や道徳観をやしなうことについても、望めません。

 

いつの日か、海外やアメリカの精神医学及び国内の世間の風潮などが、やっと「霊や憑依に関しての知識」を認識しはじめた頃に、何事もなかったのように、今までさんざん誤診をしてきたことも棚に上げて、精神科医は、霊や憑依に関して、つらつらと自信ありげに語り出すでしょう。

 

昭和以前までは、鵜飼氏の著書にも有るように、多くの仏教者が霊に関する知見を持っており、今のように「霊に関して半信半疑で慰霊や葬送をおこなう。」という仏教者が多くを占める状況ではありませんでした。

 

そのため世間一般もある程度の人は「霊魂観」が有りました。

 

その霊魂観が以前のように元に戻れば、その頃にやっと「精神科医が、霊や憑依を、統合失調症/解離性障害と誤診する」という状況が減っていくでしょう。

 

精神科医のよくある特徴の「深く考えず、深く検証せずに、道徳観も乏しく、誤診について考えも及ばず、物事を進める」という点からは、精神科医が好きな海外の医薬品企業や利害関係者や身内が、霊魂について、DSMやICD以上に声高に言えば、すぐに精神科医は信じる方向に転じると思います。

 

それまでは精神科医には全く期待できません。

 

※DSMやICD、MSDマニュアルの影響なのか、ごくごくわずかに、正しい霊魂観を持ち始めている精神科医もいます。

 

京都府 京田辺市の誠願寺のブログには以下の記載がある。

メンタル、心療内科

 

時より心療内科の医師が、「お寺で、お祓いして見ては如何でしょうか」とアドバイスをされる先生が多くなったように感じます。
先生自体が何かを感じられるのか分かりませんが、確かに霊障にての精神疾患が増えているのも現状です。

 

今(2023年)は、過半の精神科医は霊や憑依について、ただただ誤診をし、効果が無くてただ霊媒体質の敏感体質な方々には激烈な副作用(意識の朦朧や自殺企図等)が出る薬の処方をするのみです。

 

そしてその誤診に対して責任を取ることもありません。

 

誤診が起こる原因は「知識が無いため」です。

 

上記のように海外の精神医学を掘り下げて勉学する意識や倫理観も、精神科医にはありません。

 

間接的又は直接的に神や霊のせいで、精神障害や身体障害が起こった事例等、知識として共有し知っておかなければ、霊障に関していつまで経っても漫然と誤診をするのみです。

 

建築関係の方、葬儀屋さん、お寺の方、遺品整理の方であれば、「間接的又は直接的に神や霊のせいで、精神障害や身体障害が起こった事例」は、わりと遭遇するようです。

 

建築関係の方であれば「井戸埋めの方法が不敬だった事」による霊障(真言宗 加藤氏の著書にも記載有り)、遺品整理の方であれば事故物件にまつわる話、本をよく読む人であれば御神木を切り倒して霊障が起こった話(今昔物語集 巻11第22話 推古天皇造元元興寺語 第廿二 など)。

 

まぁ霊能者でも「神からの啓示を受けて除霊や神事をしていれば良く、神や霊について本など読んで知識をつけることはしなくて良い。」などという取るに足らない方々も多いと思いますが。

 

「間接的又は直接的に神や霊のせいで、精神障害や身体障害が起こった事例」及び「武士」

 

間接的又は直接的に神や霊のせいで、精神障害や身体障害が起こった事例の最新情報は、ほんの1側面ですが、例えば「真言宗 除霊」でインターネット検索して10ページ目までに表示されたまともな真言宗の和尚が記載している除霊の感想文や体験談などに多く記載されています。

 

例えば永楽寺と天光寺の体験談を見ると、憑依の原因で多いのは、近しい者の自殺、愛憎の念を無意識に飛ばされた事による生霊、土地の因縁、水子、心霊スポット訪問、などの記載がありました。

 

また、武士の霊も多いです。

 

・他のページにリンクを張りましたが、最も有名なものは真言宗の方の著書に何度か記載されている、武士だった高峰大神

 

・ユタの根間氏(男性の根間氏)がカミダーリの際に接した武士

 

京都大学人類学研究室 季刊人類学 10巻4号 - 武士の霊が憑き、その後に祀る

 

など。

 

武士は長期間、「成仏できない事例」は多いですし、ある意味、長期間かかっても成仏してやろうという「諦めない努力」や「才覚」もすごいです。

 

「諦めない努力」という面について詳述すると、

 

・未成仏の霊において多くみられるケースは

 

→血縁/因縁/機縁の有るもの(者、物)に憑き、場合によっては体調不良を発生させ(本意では無いが、役に立たない病院めぐりをさせた後に)、想いを理解してくれたり除霊(成仏)させてくれる寺を目指したりという流れなのですが、

 

それに対して

 

・武士は(武士だけは)

 

→「血縁や因縁の強いもの以外の人間にも憑依し、成仏を目指す。」という事が行えるようです。

 

これはなぜそのような事ができるのかが不明です。

 

武士道によるものなのか、執念深さなのか、才覚の高さなのか。

 

武士は良くも悪くも「極限でも狂いにくい」という性質が有るのかなと思います。

 

後に高峰大神のことを詳述した本を読むと、その著書も似たような疑問を抱いており、理由としては武士道及び当時の時代観念や当時の教育が影を落としていると言う風な理解をされておられました。

 

また、死後に未成仏の霊となった者のうち、なぜ武士は”長期間、成仏できない事例”となってしまうのかと言うと、「仏語」や「日本の伝統芸能の能」では、”修羅道”として表現されています。

 

※こういった広範な知識を読み、実際に話を聞きに行き、真偽の判断をしないと、いつまで経っても判断力が養えず、テレビCMや、色んな分野の”先生”(特に霊能の先生及び病院の先生)に、容易に洗脳/扇動され、「意思決定」を簡単に操られるのではないでしょうか。

 

霊障に対して、敏感体質(霊媒体質)な人間には激烈な副作用(寝たきりになる等)の出る薬を処方するような医師は、多くの業種の中でも人の生命や人生を左右する業種であるため、より、こういった知識やエビデンスを収集し、真偽の判断を繰り返し、判断力を養い、誤診しないようにするという責務を負うはずなのですが、もはや「日本の倫理感」は、ある側面においては崩壊していますので、そういった責務を担える医師は現代では少数派だと思います。

 

「医師の倫理観」については、これも悪い1つの側面という見方もできますが、戦中/戦後/現代の医師の所業や言動、例えば保阪正康氏の歴史本や医療本を読み、また、ジャーナリストの方々などの医療過誤関係の本などを参照ください。

 

特に医療過誤の件数は、一般の方が想像する件数と実際の件数とで大きなひらきがあります。

 

そして精神科医は誤診が気づけない及び責任を取らなくても良い現状においては、知識を増やすように要望をしたとしても、意味が無いですが。

 

患者が「霊が見える、聞こえる」と言うと「統合失調症」や「解離性障害」と機械的に単に返答するおもちゃ程度の力量です。

 

神霊や霊障による「示現」は幻聴/幻覚と似ているが、実際には全く別物

 

「死霊や神の、声が聴こえる/見える(幻聴/幻覚ではなく”示現”)」と、「病気による幻聴/幻覚」とはどのような違いがあるのでしょうか。

 

これは霊感の有る人と、病気でお困りの人、の話を多く真摯に聴き、違いを見出していくことで理解が深まると思います。

 

これを実施する意欲の有る医師はわずかにしかいません。

 

釈迦も空海も親鸞(親鸞に関しては夢告等)も、その他多くの尊敬されている宗教者も神霊等の示現に遭うのですが、おそらく精神科に受診すると、

 

「幻覚や幻聴ですので、あなたは精神病です。」

 

と言われ、釈迦も空海も親鸞も100%、精神薬を飲むことになり、神霊に何度も遭う場合は、幻覚や幻聴の病状が重いと判断されて、精神病院に入院するという訳です。

 

釈迦や空海や親鸞が、精神病院に死ぬまで入院したとして、精神科医は責任は取るでしょうか。

 

これらの人物に示現や心霊現象が起こったかどうかを検討するでしょうか。

 

いえ、誤診さえ認めないと思います。

 

神や霊が、人に示現したり憑くというのは、日本では当たり前のことで、卑弥呼、空海、陰陽道などの文献に記録されやすい事例や、その他民間の事例などを丹念に調べて事実の記載か虚偽の記載か半信半疑(=半分は事実)を精査し、判断していく」という事をやってきたのが日本の歴史なのですが、一部の識者以外の、大衆にはどうも真実が届いていないようです。

 

霊や除霊に関して

 

霊や除霊に関しては、法力(≒霊能力)のある仏教者や神官に対応してもらうのが日本の歴史において、当たり前であり、現在も当然のことです。

 

霊による精神障害に関して精神科医に頼っても、意味がないか、薬の副作用で苦しむかの2択です。

 

法力(≒霊能力)のある者

 

行者などの法力のある方。

 

真言宗であれば密教行者。

 

そして神/仏/霊に関して「潤沢な知識」と「対応できるだけの法力」の2つを持っているのは真言宗及び日蓮宗だと思います。

 

「法力」のみであれば、他の仏教宗派や、古神道を汲む神社の法力者、修験道やお不動さん信仰を汲む法力者が現在でも存命で、この方々でも対応可能だとは思いますが、「潤沢な知識」と「法力」の2つを持っている集団としては真言宗と日蓮宗かなと思います。

 

※明治政府の時に布告で陰陽道も遠ざけて、廃仏毀釈も行って・・・等の色々な受難後に、さらに法力者の人数は少なくなったようです、これについては数冊の文献しか読んでおりませんが。

 

そして霊に関してはやはり真言宗の和尚さんか日蓮宗のお上人に聞いてみるのが良いと思います。

 

この場合は法力の有無は問いません、霊に関しての正しい知識は多くの真言宗の和尚(わじょう)さんや日蓮宗のお上人がお持ちだと思います。

 

真言宗 豊山派 太子山 天明寺のYouTube動画等。

 

霊や密教の効果に関して1000年以上、積み上げてきたものがあり、文献も残っています。

 

1000年以上、積み上げてきた経験(霊障による精神障害の対応経験や、医師からさじを投げられた患者を治癒させてきた経験)に対して、精神科医は無知と言えるレベルです。

 

これら歴史や知識を、精神科医は全く持ち合わせていないため、ただただ誤診し、その責任も取らないという状況です。

 

また、除霊に関しては真言宗 永楽寺や天光寺がインターネット上で見つけやすいと思います。

 

他の除霊を掲げているお寺については、除霊を掲げているお寺ページにて一覧を紹介します。

 

これらのお寺のホームページの除霊の感想文でも、精神科医に誤診されたり全く効かない薬を処方された例が掲載されています。

 

本当に精神科医は何年間にもおよぶ「病院通い」や、効果の無い精神薬(かつ、敏感体質にはひどい副作用の出る精神薬)を勧めてきたことを反省せねばなりません。

 

反省するという心を持つ精神科医は日本にほとんどいないと思いますが。

 

精神疾患と霊障は、どちらも精神がおかしくなるという点で、混同したり間違えやすいのですから、精神科医は最低限の霊障の知識を持ち、薬で治らない患者に接した時は、単に薬を変えていくという凝り固まった手法のみを取らずに、「1度だけでも法力の有る者が務める寺社にも相談しに行ってください。」と言わなければなりません。

 

また、真言密教については、本では、高野山寺報誌の著述者である密教行者の三井英光氏の著書などが流通しています。

 

三井氏の著書にも霊障を治した事例や、下記に詳述しますが「身病の要は、四大と、鬼と、業なり」に関することも記載されています。

 

同じく真言宗の佐伯泉澄氏も霊障の治療事例を著述しています。

 

※ただし、真言宗で有ったとしても、霊験あらたかな神社だとしても、「法力の無い者で、且つ知識/判断力も無い者や、古来からの文献やエビデンスを突き合わせて、この情報は真であるか偽であるかという検証の繰り返しも思い浮かばない者」は法力者の著書の本当の意味も真実も理解できず、多くの文献を読んで判断力を養い、真偽の精査を行うということもせず、単に「今の自分のレベルの知識及び感覚や感じ方」に沿うような事実のみを真実と思い込むことしかできません。

 

このように真言宗の文献だけで見ても、空海から三井氏や佐伯氏など、霊障の治療方法は多く記載されています。

 

他の宗派や、神道の文献、民間の文献まで手を広げると、当たり前ですがさらに多くの霊障の治療実例が載っています。

 

霊魂の存在

 

鵜飼秀徳氏の「霊魂を探して」という著書にも、霊魂や法力の有無等を仏教者にアンケートで尋ねた結果が記載してあります。

 

その書籍から抜粋されている各宗教団体の霊魂に関するポジションの図も分かりやすい。

 

ただし浄土真宗について、”浄土真宗に至っては、霊魂そのものの存在を否定している。”と言いながら、他のケース、例えば伝統仏教界の「死後の世界」に関する動向のように”一方で、浄土真宗では、歌詞が宗祖・親鸞が重視した二相回向のうち「還相回向」に通じるとして肯定する傾向がみられた。”という見解もまた有るのではないかなと思う。

 

浄土真宗のお寺のホームページでたまに紹介される「悲しきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」も、占いや魔除けを否定しているという見解だとは思うが、実際には東本願寺や渉成園、他の真宗寺院の北東箇所に鬼門除けを設けているように、異なる見解を持つ方々もいるのかなと感じる。

 

文化庁が作成したページの真宗本廟 東本願寺 玄関門 北側 築地塀には「寺域の鬼門となる北端部は折曲がりに隅を欠き取るように配され」と記載されているし、例えば尊宝寺の場合、改宗後も篠山城の鬼門除けとして配置されている。丹波篠山市の該当ページには「篠山城の築城に際し、鬼門除け並びに重要拠点として、現在地へ移築された。」と記載されており、西本願寺の北東の太鼓楼のように、鬼瓦が使われている浄土真宗/真宗寺院は多く有る。

 

人の意見や表明については、ポジショントーク(それぞれの立場から自分の都合に沿った見解をあらわすこと)や忖度が過ぎるのではないかと精査するのも必要かなと思うし、「宗祖」の言った事や著書の文章が全て正しいという立場に立ってしまうのも、排他的であり、争いのもとかなと思う。

 

本や文章を読んだり、人の意見を聞くときには、自分自身による、検証や文献比較を、無意識的に/意識的にしなければならないかなと思う。

 

著書が敢えて読みやすくするため、及び分かりやすくするために用いた「方便」「極論」をそのままの意味に捉えずに著書全体からその「方便」部分を捉えなおして、著書の「本意」と「真意」を探る事も大切かなと思います。

 

能力は有っても微妙な法力者も

 

また、識者や真言密教行者等にしか理解してもらえないかもしれないのですが、大事な事なので指摘すると「法力が有って、除霊ができる者」の中でも「技能の高い低い」や「歴史や文献等による、知識の有無」は、個人個人異なります。

 

私が思うに、「民間から生まれた法力者」は、「文献による勉学」を経由せずに、除霊等ができる法力者(≒霊能者)になる傾向が強いです。

 

「文献による勉学」を経由する法力者

 

高野山大学や密教寺等で文献や密教を学んだ後のごく一部の法力を持つ(真言密教)行者や、皇學館大学等で文献や神道学を学び、ごく一部の、霊感の素質が有って修行等を経て法力を保有する神官などのケース。

 

対して「文献による勉学」を経由しない法力者

 

→民間から霊能力者や教祖になるといった法力者の多くにみられるパターンで、言い換えると一般人が神がかりと修行によって法力者になる際に、よくあるパターンです。

 

これは民間の霊能者を必要以上に揶揄したり咎めている訳ではありません。

 

結構、文献を読まない法力者に相談に行って、結果として被害を被るような方々がいるために記載しております。

 

「文献による勉学」を経由しようがしまいが、どちらの両者とも、神の加護が有り、神力で除霊等が行えるのですが、当然ながら後者は、「本を読まない欠点」を抱えたままになります。

 

「本を読まない人の欠点」は、それこそ本人は、本ではなくてインターネット等で調べてもらうしか調べる術は無いのでしょうが、法力者としてつらいのが「視野が狭い・”深い(文字)情報”の真偽を判断する能力の向上が一切無い」という点です。

 

そして視野が狭い法力者は、原因を断定する傾向にあります。

 

また、文献を読まない故の視野が狭い法力者は、必ず間違いや取りこぼしを行い、それに気づくこともできません。

 

なぜかと言うと初めてのケースや稀なケースには、初心者同様の対応しかできないためです。

 

例えば西暦800年から現代に至るまで、文献に何度も出てきたケースだと分かっていれば、初めてのケースや稀なケースにも対応できるのですが、文献を読まない故の視野が狭い法力者は、これが、対応不可です。

 

法力や霊能力は決して自分の祈祷経験のみを経験値として積み上げていくものではありませんし、自分の祈祷経験の中で、間違いや取りこぼしが有ったかは、文献を確認しないと気づくことができません。

 

不動明王や神は嘘はつきませんし間違いも起こしませんが、「祈祷師」というフィルターを介する限り、「祈祷師」の体調、年齢による感能力の衰え、祈祷の慣れ、視野の狭さ等の様々な要因によって間違いは発生します。

 

民間から生まれた法力者(で本を読まない、及びまとまった勉学の機会の無い者)は、これに気づけません。

 

民間から生まれた法力者で、「誤診に気づく仕組み」を自ら作り上げている者もいません。

 

「誤診を指摘してくれる者が1人もいない。誤診を受け止める精神修養ができない。」

 

これが民間から生まれた法力者に多く見られる大きな弱点です。

 

精神科医同様に、法力者(民間では祈祷師と呼ばれる事が多い)もまた人間ですから誤診をしますし、誤診に気づく仕組みを備えることは大事です。

 

※何らかの要因(窮乏、障がい、戦時等)によるために文献にふれにくい環境、である霊能者を咎めるものでは一切ありません。

 

※ただし民間から生まれた法力者によくある特徴の「神は誤診を絶対にしない。」だから「私は誤診を絶対にしない。」という思い込みの強さは、ある意味では、「文献を読まない法力者」にとっては必要な能力です。

 

「神は誤診を絶対にしない。」だから「私は誤診を絶対にしない。」という思いで除霊や祈祷に望むのは「信心の強さ」とも言えるため。

 

※実際には、神仏は、法力者に回答せず真実を伝えない事もあります。神道や仏教の世界には「回答しない。」事が最適な回答となるケースが有ります。これも文献を読まない法力者は「神道や仏教で”回答しない事例”」を知らない訳ですので、誤診するしかありません。回答しないケースとしては例えば禅書の無門関での黄檗氏と百杖和尚の事例のように「因縁を生じさせないために」回答をしない事が(良しとされる事が)あります。

 

信心の強さは、やはり法力の強さにつながると思います。

 

誤診を自ら発見しようものなら、それが祈祷師自身の「信仰の揺らぎ」や「信仰のブレ」が発生し、信心の強さが、やや弱まるのではと思います。

 

ですので、本来であれば高野山大学出身の真言密教者や皇學館大学出身かつ霊能力を持つ神官のように、色んな文献を読んで、文字情報の真偽を判断する能力の向上を図り、その上で加持祈祷をやるのがより良いとは思いますが、そこまでを民間から生まれた法力者に期待するのは難しいかもしれません。

 

そもそも、神が選ぶ民間人(法力者になるために、神が選んだ民間人)は、「多くの文献調査をします。」という人間よりも、ある意味、朴訥、純粋な人間の方が多いですし。

 

空海の言う「身病の要は、四大と、鬼と、業なり」について

 

これは、空海が830年頃に著述した十住心論の一節です。

 

さらに空海は

 

「四大(四要素)以外の病気は、薬の力ではどうすることもできるものではない。」

 

と言っており、霊障は医師や精神科医が出てきても意味が無いということです。

 

空海の、この薬に関する部分が、嘘や迷信だと精神科医や医師が思うのならば、もうどうしようもありませんが。

 

各種エビデンス、例えば日本の歴史における御霊神社の建立の流れ、各寺社における鎮魂や慰霊方法、密教や神事、寺社の成り立ち等には霊魂を詳述するものが多く記載されていますが、それらを勉強しないと、このまま誤診を垂れ流すだけ、副作用で苦しむ人間を生み出すだけです。

 

まぁ誤診しても責任を取らないのが精神科医や浅はかな霊能者ですので、どうしようもありません。

 

霊障が引き起こす鬱症状、幻覚、幻聴などは、うつ病・統合失調症・解離性障害と診断することは大間違いで、学が無いのであれば「診断結果を下すだけの知識がありません。」と言うべきなのですが、なぜか精神科医はこの言葉を言えないようです。

 

別ページでも事例を挙げましたが、脳腫瘍や野草などによる幻覚でも、おそらく精神科医は精神病と誤診し精神薬を処方するでしょう。

 

「鬼病」は、心の病や精神病ではない。

 

また現在では、この空海の言う鬼や鬼病を、何ら文献の精査もせずに主観で「心の病」「精神病」のことだと間違った捉え方をし、それを堂々とホームページに掲載している寺社の方々や識者もいます。

 

ここで空海が「鬼」と言っているのは、中国語に由来する「鬼」のことです。

 

また、中国語、特に仏典で使用される「鬼」は、サンスクリット語の影響も受けている。

 

そして現代では「鬼月」などの用語が残っているように、「霊」や「魂」も表す。

 

大漢和辞典(大修館書店)では「鬼」の意味について、「魂」・「陰気」・「想像上の化け物」などの様々な用例があると挙げている。

 

摩訶止観(594年に中国の天台智顗が講義し章安灌頂が記述した文献)の巻八の記述では、「薬で治らないのは鬼、魔、業」と記載している。

 

この摩訶止観には、仏教書にはよく記載される「四魔」についても記載されており、四魔の四つ目が他化自在天魔(愓鬼、時媚鬼、魔羅鬼)であり、時媚鬼は幻覚などで揺動、扇動する。

 

四魔について、現代では、全て煩悩という内なる「魔」と記載されている場合も多いが、天台智顗の摩訶止観でも龍樹菩薩の大智度論でも、内なる魔と、外から来る魔の2種類を大別している。

 

本や新聞などを読む際に「一次体験者が体験した真実について、以降は(文献では、原典以降は)、その新しい本の著者の理解や意向に沿うように、広義の解釈や我田引水が行われうる。」という事は、多くの本を読んでいれば分かる。

 

このように、外からの魔(摩訶止観なら、魔のうちの三鬼)が幻覚作用を引き起こすのは1400年前から知られている現象。

 

「幻覚は内なる作用」との思い込みがあるから、これを現代の精神科医や浅はかな霊能者は、外部要因での幻覚(野草や、この魔など)を精神病や統合失調症を治す薬の処方が適切だと誤診する。

 

精神科医は、まずは霊魂や心霊現象とは何かを、一番「霊」に近い寺社の者に詳しく聞き、そして1000年以上前から常に出版されている霊に関する多くのエビデンス資料を用いて勉強しなければならない。

 

ただし魔や鬼や悪霊についての正しい知識は、寺社の者でも殆ど持っておらず、今では陰陽道と日蓮宗の中の数名程度しか知識として保有していないのではないか。

 

ちなみに浄土真宗及び真宗の親鸞聖人の著作には、鬼や鬼神や神祇不拝等に関する事柄の記載があるが、教行信証の化身土巻(顕浄土方便化身土文類六)には

 

(摩訶止観)『止観』の魔事境に云わく、

 

二つには、魔の発相を明かすには、管属に通じてみな称して魔とす。

 

細しく枝異を尋ぬれば三種を出でず。

 

一つには慢悵鬼、二つには時媚鬼、三つには魔羅鬼なり。

 

三種の発相、おのおの不同なり、と。

 

(往生要集)源信、『止観』に依って云わく、

 

魔は煩悩に依って菩提を妨ぐるなり。

 

鬼は悪病を起こす、命根を奪う。

 

等、多くの「魔」や「鬼」に関する捉え方を明示した資料群の引用がある。

 

1つ目の摩訶止観は、三鬼の事を言っている部分の抜粋のため、これは外から来る魔。

 

2つ目の往生要集は、煩悩魔を言っているため、これは内なる魔。

 

そして「魔は煩悩に依って菩提を妨ぐるなり。」というのは魔は仏道を妨害するという意味で、「鬼は悪病を起こす、命根を奪う。」は、鬼は病気を引き起こし、命を奪うという意味です。

 

「魔」について補足するならば、仏の道に触れたり仏道を求める際にはこのような「魔」と向き合う危険性もあるのだが、ある程度の霊感・法力・神仏と通ずる力などの素養を持った人が1人きりで修行を行う場合、特に外から来る「魔」によくよく注意して修行(写経や滝など)等を行わなければ、大惨事を起こしうる。

 

仏の道に触れようとする者が魔に取り憑かれる話は、釈迦の前に現れた内外の悪魔の話を代表として、多く存在している。

 

特に現代でも修行を勧める者は、「悪魔なんているはずがない。」「昔の文献や古典を読んだり、掲載されている事柄の事実検証をしたことが無いから知らなかった。」では済まないのであるが、現代ではこのような事がまかり通っている。

 

(主に仏教の)鬼や鬼病、魔の意味について

 

以下、鬼や鬼病や魔が出てくる文献を挙げます。

 

平田篤胤氏の鬼神新論や親鸞聖人の教行信証化身土巻は、ある意味「引用文献集」とも言えるので、それらの引用文献を辿っていき、その原典の真意を見るのが良いかもしれない。

 

年数で言えば1000年以上、大量の文献がありますので、取るに足らない文献や、省くに相当する文献は紹介しません。

 

また、昔の文献に出てくる「プレータ」についてだが、これはサンスクリット語で、亡くなった人の霊という意味。

 

悪い意味は入っていない。

 

しかしながら仏教では餓鬼と訳されて、悪い意味が入っている。

 

この辺りでも既に3者(神・死霊・魔)の憑依現象が、1つ(鬼)の憑依現象として、混同されている。

 

鬼による憑依については、あくまでも

 

・「未成仏の霊」による憑依

 

・「神」による憑依

 

・「悪いことをする魔や悪霊」による憑依

 

の3者を切り分けて対応しないといけない。

 

現在でも、精神を病む=精神病という診断になるが、本来は精神を病む=身体疾患or精神疾患or霊障or野草等の外的要因or一過性のストレス......と切り分けていかなければ、到底正しい治療は行えない。

 

文献名:スシュルタ・サンヒター(インドの古典医学であるアーユルヴェーダの文献。紀元前700年~400年の医療情報の総集編で成立は400年以前。)

 

鬼神学との記載があり、「鬼神」の意味は、例として阿修羅、夜叉、羅刹など。

 

また、インドの(哲学)文献のウパニシャッドでは鬼神(アスラ)と記載がある。

 

治療方法は祈祷や供物で、治らない場合は薬などによる治療。

 

文献名:チャラカ・サンヒター(インドの古典医学であるアーユルヴェーダの文献)

 

鬼神学との記載がある。

 

文献名:春秋左氏伝(昭公7年。紀元前500年頃)

 

https://ctext.org/chun-qiu-zuo-zhuan/zhao-gong-qi-nian/zh

 

「匹夫匹婦強死,其魂魄猶能馮依於人,以為淫厲,況良霄。」

 

現代語訳すると「非業の死を遂げた場合(念がこの世に残る死に方をした場合)、人に憑依して祟る。」

 

「淫厲」(いんれい)は祟るという意味で、ここでは鄭の国に仕えた親子の良霄・良正の話を指している。

 

文献名:摩訶止観(594年、中国の天台宗の開祖/高祖の天台智顗が講義し章安灌頂が記述した文献)

 

「昭和新纂 国訳 大蔵経 宗典部 第13巻 摩訶止観」(東方書院の三井晶史氏(三井諦心氏)。1932年。1991年復刊。国会図書館オンライン - 摩訶止観

 

P.493から、内なる魔と、外から来る魔について詳細な記載がある。

 

薬で治らないのは、鬼、魔、業。

 

鬼病は実在し、巫術に進もうとすると鬼病になる。

 

鬼病になると、病気になって命を落とす。

 

魔は、仏道を妨害する。

 

四魔とは色々な鬼を含む意味で使われている。

 

治す方法は(憑依としての)邪念を切り離すこと。

 

※「業(先祖や前世での悪業)」については、取り扱いが注意な言葉であり、後述します。

 

文献名:十住心論(830年頃。秘密曼陀羅十住心論。真言宗の弘法大師空海による文献)

 

身病の要は、四大と、鬼と、業なり。

 

文献名:往生要集(985年、天台宗の源信による文献)

 

魔は煩悩に依って菩提を妨ぐるなり。

 

鬼は悪病を起こす、命根を奪う。

 

摩訶止観を参照した文章。

 

文献名:大田入道殿御返事/金吾殿御返事(日蓮宗の日蓮聖人 1222~1282年)

 

明病起因縁有六。

一 四大不順故病。
二 飲食不節故病。
三 坐禅不調故病。
四 鬼得便。
五 魔所為。
六 業起故病。

 

摩訶止観を参照した文章。「鬼得便」「魔所為」とある。

 

文献名:顕浄土方便化身土文類(1247年頃、教行信証の化身土巻。浄土真宗/真宗の親鸞聖人)

 

親鸞聖人の文献に出てくる鬼や神について。

 

現世利益和讃や、この化身土巻など多くの文献に出てくる鬼や神。

 

「神祇不拝」や昭和の「神棚不要論争」などは、浄土真宗や歴史を学ぶ上で良い教材ではないかな。

 

「漫画 歎異抄」(2003年、本願寺出版社)のP.164からは以下の記載がある。

 

第七条

一 念仏者は、無礙の一道なり。

 

そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし。

 

罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえなりと云々。

 

浄土真宗聖典 註釈版 八三六頁

 

P.168

 

唯円:まだまだ「念仏者は神々を否定するケシカランやつらだ」という者が少なくありませんね

 

親鸞聖人:そのようじゃな

 

P.169

 

唯円:いわれるように神々はお念仏を非難されているのでしょうか?

 

親鸞聖人:ハハハ・・・そんなことはないぞ

 

唯円:へーそうなんですかぁ

 

親鸞聖人:神々は敬意を表して念仏者を守っていてくださる

 

また、「天神・地祇・魔界・外道」が存在しているから、親鸞聖人もこの話をしているのであるが、「魔界」だけは、現在では浄土真宗の住職さんでも、魔は煩悩等の「内なるもの」のみとして解説している方もいる。

 

「魔」に関して仏教書等の文献調査をせずに、ホームページ等でそのように発表し、門徒さんに伝えているのは何を考えているだろうか。

 

仏教書等の文献調査をしないならば、「神」も「魔」も「仏」も、全て嘘、とでも何とでも言えると思うし、「仏」の存在だけはなぜ事実だと思って信心しているのだろうか。

 

教行信証(様々な文献の引用を集めた文書)などから分かるように、「様々な文献を読んで、引用し、目に見えない存在についての事実を検証、傍証、確定しましょう」というのが、親鸞聖人が身をもって示した思考方法や歩み方だと思うが。

 

この現状は、「魔」の検証や傍証をしてきた人間ならば、おそらく唯円のように、歎くだろう。

 

まぁもう仏教は、現代においては原典の検証や、大衆による論争も起きないくらいに熱は下がっていると思うが。

 

メディアや知識人が誤用する「他力本願」ぐらいは、浄土真宗や真宗としては最重要用語のため、論争をけしかけたり、昭和中期頃のようにメディアを叱って欲しいものである。

 

そして、浄土真宗 WikiArc - 顕浄土方便化身土文類 (末)のページで「鬼」をページ内検索すると、数々の引用文を見られる。

 

首楞厳経や摩訶止観や往生要集など。

 

首楞厳経の箇所は

彼等諸魔 彼諸鬼神 彼等群邪 亦有徒衆 各各自謂。
成無上道 我滅度後 末法之中 多此魔民 多此鬼神 多此妖邪。
熾盛世間 為善知識 令諸衆生 落愛見坑。

との記載があり、「末法では魔や鬼神が多く現れて、善知識のような振る舞いで、衆生を惑わして、愛見(執着や固定観念)の坑に落とす。」と。

 

これは現代を予知しているかのような文章で、現代風に言うと「(悪い)”有識者”や”先生”が、本当のような嘘のことを言って、結果として大衆を正しい世界に導かず、浅い世界に蹴落とす。」

 

いつの時代も「道徳観を養わずに、生半可な知識を我田引水した”有識者”や”先生”」は、「悪気も無いし、魔にさされてもいない。」と思い込んで、上手い弁舌で、人々を陥れます。

 

特に金銭欲、権威欲、承認欲求を持つ”有識者”や”先生”は、いつの時代も多くいますので、本当に注意してください。

 

そして、つまるところ親鸞聖人は「鬼神」について思慮や憂慮を重ねており、人々が鬼神に惑う様を悲しんでいる。

 

また、親鸞聖人が結局、鬼とは何なのかをどのように理解されておられたかは不明。

 

基本的には「仏に教化されていない神」との認識か。

 

または結局は神、魔、先祖霊をも含む意味なのか。

 

結局、この親鸞聖人の鬼神に対する思慮や憂慮を、人々はなかなか理解できなかったり我田引水してしまうケースも有った。

 

現代でも「霊感商法に気をつけろ。」という思慮や憂慮が、色々な理解のされ方をして、ついに最後には「霊なんていない。」と理解してしまう方々も非常に多い。

 

特に様々な文献を読まない人は、多くの客観意見を知らないために、主観にもとづいた判断や事実認定をしてしまう。

 

また、霊魂否定派と断ぜられがちな浄土真宗も、霊魂に関わる部分として還相回向というものがあるし、鵜飼氏のアンケートでは浄土真宗の僧侶の8%は霊魂の存在を信じると回答している。

 

文献名:鬼神新論(1805年及び1820年、平田篤胤氏)

 

国書データベース-鬼神新論(きしんしんろん)/新鬼神論(しんきしんろん)-大洲市立図書館

 

良い神と悪い神(悪霊)についての記載もある。

 

新井白石氏の鬼神論(1800年)と、この平田篤胤氏の鬼神新論には、鬼に関する多くの文献が紹介されている。

 

弟子の宮崎大門氏の国書データベース-幽顕問荅抄(ゆうけんもんどうしょう)-大洲市立図書館(1839年)には

 

・「侶て、人霊魂の人体に宿りし事は、魁土にも品々有り、其の由は、師の翁が著せる鬼神新論と云う杏に其證数々、記されたり」

 

・「見狭き学者、また偏屈の性質の人は、世には快異は無き事と定めたるにこそ、笑しけれ」

 

との記載がある。

 

霊や人への憑依を認めない者は、「見狭き学者、また偏屈の性質の人」というのは現代でも同様。

 

現代の精神科医や霊能者にもこのような者が多く見られる。

 

文献名:弘法大師全集(1923年、長谷川宝秀氏)

 

十住心論

 

四大のそむけるには薬を服して除き、鬼業(きごう)の祟りには呪悔(じゅかい)をもってよく銷(け)す。

 

薬力(やくりき)は業鬼(ごうき)を却(さ)くることあたわず。

 

呪功(じゅく)は通じて一切の病を治(じ)す

 

文献名:空海百話(1984年、佐伯泉澄氏。”弘法大師のみ教えを慕って”も同録か。)

 

伝統仏教界の「死後の世界」に関する動向

 

十住心論

 

身体の調子が狂って病気になった場合には、薬をのんでその病を除く。

 

鬼病(亡くなった人があの世で迷って、縁のある子孫の人に助けを求めてよりすがってきたために病気になった場合)と業病(前世の悪因の報いで、人知れず長く苦しむ病気にかかった場合)には、真言を一心に唱えて懺悔し、信心することによって、これを消すことができる。

 

鬼病と業病とは、薬の力ではどうすることもできるものではない。

 

鬼病は、「未成仏霊」の意味としている。

 

これは佐伯泉澄氏が実際に「未成仏霊に対して祈祷し成仏」との光景を実際に見聞きしているという要因が一番大きいと思われる。

 

文献名:加持力の世界(1985年、三井英光氏)

 

十住心論の解説

 

昭和後期~平成以降は特に、「鬼病」は「精神病や心の病のこと」だと間違った解釈

 

昭和後期~平成以降は特に、「鬼病」は、「精神病や心の病」という間違った解釈が広まる。

 

今後も、真言宗の方々や識者が十住心論を訳す際に、真言密教や除霊の歴史を知らなければ、鬼病については「未成仏の霊などによる憑依」とは訳せないであろう。

 

「鬼病は憑依現象」だという当たり前の知識を持っているのは、佐伯泉澄氏や京都 眞言宗 誠願寺 和尚の方など、現在日本では僅かにしかいない。

 

京都 眞言宗 誠願寺の和尚の方いわく

 

誠願寺伝では、鬼は霊、死者の事と言われており、赤鬼と青鬼が物語にもよく出てきますが

 

赤鬼、青鬼と分けてあるのには意味が御座います。

 

色について

 

色についても古来から多くの文献に記載がある。

 

なぜ仏像はこの色なのか等。

 

弘法大師全集 第四巻 実践編(1984年、筑摩書房)にも青色は何のためで、何色は何のため等の記載があり、奈良県 葛城市の金剛山赤不動明王院の密教者の方のブログでも赤色についての由来が述べられており、平田篤胤氏の新鬼神論(1805年及び1820年)や、中村雅彦氏の記述では、神を白と黒に分けて表現や記載をしている。

 

空海は「薬で業鬼は治らない、祈祷で治す。」と言っているのに、「鬼病は心の病」とは、どのような文献を読んで、そのような主観を持つに至ったのか聞いてみたい。

 

祈祷を体感したことも知識として学んだことも無いから、このような軽口を叩けるのではないだろうか。

 

昔も、鬼病→えやみ→疫病という誤解もあったが、様々な文献やエビデンスに容易に触れられる現代でも、学が浅いことによってそのような間違った解釈をしてしまうとは。

 

鬼病は、人間に憑依してパワーを奪い取る事もある現象なので、その結果として疫病になったり精神を病むことはあるだろうが、それは暫時的な結果であり、単なる通過点。

 

あくまでも祈祷によって治癒する現象であり、薬や医者による治療では意味が無いのは、どの文献でも一貫して説いている。

 

まぁ、多くの文献やエビデンスを精査しないために主観でしか物事を判断できないのが、「精神科医」、「病気と誤診してしまう浅い霊能者」、「本を読まない者」。

 

本を多く読まないと、「この情報は事実かどうか判断する」という能力も向上しない。

 

自分1人の経験則や経験値なんてたかが知れている。

 

他者の経験を、本を読むことによって、摂り入れなければ、「高度な判断力が求められる現代において、通用する判断力」は身につかない。

 

業病について

 

(仏教が考える)業病については、現在においても特に正しい知識が必要な事柄です。

 

天台宗人権啓発公開講座2018には

 

”仏教もまた・・・病気に罹った人たちに前世あるいは今世の罰であるかのような布教をおこない、「あきらめ」を強いてきた”

 

との記載があるが、仏教の多くの宗派が、昔はこのような見方をしてきた。

 

業病ではなく鬼病に関しては、平成や令和以降も「法力者による治療例」が文献、インターネットの文字情報、動画などで一貫して豊富に情報が有るが、業病に関しては、平成や令和以降、「法力者による治療例」は見当たらない。

 

ただし先祖や先祖の行い(高峰大神の例など)が、子孫を寝たきりにさせるというケースはある。

 

色んな事例を見聞きし考えるに、やはり戦争や災害やいじめ、職場環境による過労死や精神疾患など多くの激烈な結果が、とても先掲の”前世あるいは今世の罰”だとは全く思えない。

 

よって多くの仏教者や法力者の著書も、全てを鵜呑みにするのではなく、多くの仏教者や法力者の著書やエビデンス、及び実際の体験談等を見聞きし、比較検討や真偽の検討をすると、真実が見えてくるし取り扱い方も分かってくる。

 

そして業及び業病に関しては現代では文脈においては差別的表現となる、またはなりうる。

 

「因果応報」(前世ではなく、今世で行った悪業の報いとして今世で自分に跳ね返ってくるという戒め、教導、法話など)あたりにとどめて表現するのは問題無い、及び適切だと思うが。

 

そしてさきほど「昔はこのような見方をしてきた。」と記載した点と関連するが、そのような危うい記述がなされた昔の仏教書については、現代において出版する場合は、多くの復刻された一般書同様に

 

「現代の人権意識等からみて差別的な表現が見られる部分があります、当時の時代的背景・・・」

 

という風に基本的には必ず注釈がつけられ、現代の一般大衆や読者にとって読みやすいものになっている。

 

また、仏教の懺悔文(華厳経の懺悔文)であるが、この中には「無始」という表現があり、「始まりの無い過去」を示しており、この懺悔文自体は、それらの時々で行ってしまった悪業を反省するものである。

 

これが、「前世の悪業による今世のつらさ」を取り除くもののようにも関連付けられて語られる事もありうる。

 

仏教において、「懺悔が現在の自分を和らげる。」というのは修証義「懺悔滅罪」や日蓮宗「懺悔は治病の妙薬」との記載にある通りである。

 

そして業病、特に先述の引用

 

"仏教もまた・・・病気に罹った人たちに前世あるいは今世の罰であるかのような布教をおこない、「あきらめ」を強いてきた"

 

という仏教における業病について、仏教書などで知り、そのことで仏教に落胆する人も多いかもしれない。

 

しかしながら、そもそも「釈迦と、弟子の医者である耆婆とのやり取り」を見てみると、釈迦も弟子も病人(ここでは業病とする)に対して、否定も門前払いもしてない。

 

「釈迦と、弟子の医者である耆婆とのやり取り」は、律蔵(ヴィナヤ・ピタカ)の犍度(けんど、カンダカ、僧団運営規則)の大品(だいほん、マハー・ヴァッガ)に記載がある。

 

「釈迦と、病気や医学との関係」については、杉田暉道氏の著書「ブッダの医学」も詳しい。

 

このように、釈迦は、寛容に受け入れている。

 

「業病」として誤った忌避感が段々と緩やかに各文献に表出しはじめてきたのは、あくまでも「釈迦が、病気の方々を寛容に受け入れた」史実の後のことなので、別に仏教が嫌になったり落ち込んだりしなくて良い。

 

まぁ釈迦の生涯(生老病死の話など)をインターネットなどで簡単に見ても、「釈迦は、病気に対して偏見もない、まともな人物、慈悲の心を持つ人物」であるという事は簡単に分かると思う。

 

釈迦以後、高名な仏教者が書いた文献には、仏への過度な忖度、過度な虚飾、間違い、我田引水などがなされている場合がある。

 

しかしながら、だからといってその高名な仏教者やその著書が駄目という訳でもない。

 

文献を読む際に、過度な忖度や我田引水をしている文章は、読む側が、削除していけば良い。

 

著者があえて方便を用いなければ、大衆の理解を深める事ができない場合だってある。

 

現代でも、それ(ある人物による文章や言動についての、真偽の精査)をしなければ、いつまで経っても、弁舌の上手い人間のポジショントークに騙される。

 

よく分からない矛盾を抱える者

 

神社で各種お祓いや祈祷や祈願、お賽銭って、神霊がいるから皆そのようにお金を支払っている訳ですよね。

 

お祓いや祈祷をするということは、神霊が人智を超えたはたらきをするというのも知っている訳ですよね。

 

ですので、もし「神霊なんている訳ない。」「でも神社のお賽銭などはする。」という人間がいるならば、大馬鹿者だと思います。

 

「自分の思考や知識の中の、簡単な矛盾についても気づいていない人間」であるということです。

 

大馬鹿者に関して、特に真言宗等が行う「加持祈祷」や日蓮宗等が行う「悪霊退散」を一段と低く見る医師なるものや科学者も、大馬鹿者だといえます。

 

ですが、大馬鹿者の以下の

 

・医師(特に戦中/戦後。人を実験具のような扱いをしておいて、それを隠蔽するために資料を廃棄するような者や、人権教育のなされていない、精神病院への入院制度において国連の指摘も響かないレベルの精神科医等)

 

・科学者(倫理観やモラルの考慮、躊躇や熟慮よりも、科学実験が優先するような科学者)

 

・患者の挙動の詳細な観察や、自分での事実究明を途中で切り上げて、文献やエビデンスでの照会もせず、最終的に「神のお告げ」に全ての責任を放り投げる霊能者

 

等は、いつの時代も一定程度おりますので、これはどうしようもありません。

 

なるべく距離を置くしかないです。