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この、武士だった高峰大神のことが詳述されている以下の本の該当項目
・佐伯泉澄氏「真言密教の霊魂観」
・近藤千雄氏「古武士霊は語る―実録・幽顕問答より」
・原著 宮崎大門氏「幽顕問答鈔」(1839年)
は、霊魂の基本資料と言えるくらい、有用だと思います。
原著は国書データベース-幽顕問荅抄(ゆうけんもんどうしょう)-大洲市立図書館にある。
この本の中で宮崎氏は、霊や人への憑依を認めない者は、「見狭き学者、また偏屈の性質の人」と言っている。
同感。
この事例でも、まず医師が呼ばれているが、この医者は現代の医者の低俗さと異なり、霊障かもしれないと示唆もしている。
現代では医師(主に精神科医)が病状を診断した際、霊障については99%、誤診をし責任を全く取らないし、誤診に気づく仕組みも設けない。
※霊のことを理解している及び理解しようとしている精神科医は、2020年頃あたりから少しずついらっしゃる。
誤診し、霊媒体質の敏感な患者には激烈な副作用の出る精神薬(自殺企図等の報告の有るエビリファイ等)をただ漫然と出す、死後に地獄に落ちてもしょうがない程度の倫理観及び力量。
医師も霊媒師も、誤診し間違った服薬や通院を勧めたり、そもそも誤診に気づく仕組みを設けない者は、地獄が有るならば、死後に地獄に落ちるかもしれませんね。
また、高峰大神いわく「現世のものがみだりに死後のことを知っても益にならない」、これもまた重要な言葉だと思う。
自分自身で過去の文献による精緻な研究や事実究明をせずに、自分の経験のみで「死後はこのように有る」、「死後はこのように無い」と主観をもとに言っても無駄である。
また、生者がどこまで神霊に踏み込んで良いか、どこまで神霊に忖度すれば良いか(例えば、色んな事象や事柄について、その原因事実の調査もおろそかにし、何でもかんでも「神や先祖のご加護やお導き」と認識してしまう霊能者や宗教者等)も、やはり文献による経験か自己による(失敗の)経験が必要。
以下、抜粋です。
これは1990年代後半の話であるが、現在でもあてはまるかもしれない。
では、なぜ伝統仏教は「死後の世界(あの世)」を語らなくなったのか、あるいは、語れなくなったのだろうか。
真言宗善通寺派の僧侶・佐伯泉澄氏(故人)によると、手に印(いん)を結び、口に真言を唱え、心に仏を観念して、仏たちを壇上に迎え、仏と入我我入(仏が我に入り、我が仏に入る)して拝むと、仏の威神力によって、霊的問題が解決するという[48]。
佐伯氏は、「人々を霊的に救うのが宗教家と信仰者の役目である」[49]とし、自らも加持祈祷を行った。
すべてが解決したわけではないというが、自著『人は死んでも生きている』のなかで、高野山で伝授を受けた「病者加持作法」[50]によって精神に異常をきたした女性を治した事例のほか、泉智等(いずみ・ちとう)・高野山真言宗管長(故人)などが体験した不思議な霊験実話をたくさん紹介している。
「真言宗では現実を重視してきたため死後の世界のことを説くのは不得意」だったが、もう避けてはいられないと語った[31]。
「死後の世界」を説くことへの意欲は示されたものの実践に移されたどうかは定かではない。
一方で、浄土真宗では、歌詞が宗祖・親鸞が重視した二相回向のうち「還相回向」に通じるとして肯定する傾向がみられた。
還相回向は、死者が「あの世(浄土)」に往生して仏となり、「この世」に戻ってきて人々を救う利他の働きをすることである。
→感想として、浄土真宗も死後の世界や前世について言及している(還相回向として)。
鵜飼氏の著書によると、霊魂の存在を信じる浄土真宗の僧侶は8%とのこと。
親鸞聖人の教行信証や弘法大師空海の十住心論、真言宗の方の著書の霊障の話などを読む現代人は、もうほとんどいないと思うが(人口の1%、1億人のうち100万人が仏教者の著作を読んだことが有るとは、なかなか思えない)、これらの本には、仏や神、魂が、どのようなおはたらき、どのような動作をするかが詳しく書かれている。
現代人が読んだとして、これを嘘や取るに足らないものとしか感じられないのではないか。
例えば真言宗の方々が、十住心論に記載されている鬼について、どのように理解するだろうか。
単なる比喩としか思えないのではないだろうか。
これは仏教に限らずキリスト教や全然他の宗派においても。
「単なる比喩」としか感じられないと思う・・・というのは真言宗の方も著書で仰っていた。