霊障か、それとも精神疾患かの切り分け

霊障か、それとも精神疾患かの切り分け

 

除霊を掲げているお寺や神社の一覧は、こちらのページです。

 

 

このページの目次

 

霊障か、それとも精神疾患かの切り分けについてと、巫病

 

霊障か、それとも精神疾患かの切り分けについては、統合失調症と誤診される霊障の例のページの真言宗の三井氏及び佐伯氏の著書の例以外にも色々有ります。

 

そして現在において「霊障か、それとも精神疾患かの切り分け」と言えるのは、「統合失調症等の精神病と診断されたが、結果として霊障だった、そしてこのお寺の除霊で治った。」というケースです。

 

これは除霊を掲げているお寺ページで紹介しているお寺の、ホームページに体験談として掲載されていますので、そのお寺のホームページの体験談を読んでみてください。

 

これらはお寺などの「法力者側」が切り分けを正しく完了する事ができて、長年に渡って医師から精神疾患と誤診されていた症状や、寝たきり状態が治癒できたケースです。

 

そしてこのページでは「医師側」が切り分けしたケースを挙げます。

 

基本的には(全て)失敗しています。

 

ただし・・・

 

ただし、かなり件数は少ないですが、昭和頃までは医師の”機転等”により除霊までたどり着いたケースもあります。

 

昔は神社も仏教も、距離が近かったです。

 

昭和中期頃までは「町を歩けば念仏の声が聴こえる。」と言うような町も普通に有ったと思います。

 

そういった仏教や神道が身近にある時代かつ環境で育った医師は、さすがに神道の祝詞、仏教の般若心経や念仏の効力等の”目に見えない力”を信じる者もいたかと思います。

 

そういった医師であれば機転等により結果的に除霊までたどり着いたケースもあるかと思います。

 

今、「祝詞や般若心経や念仏には、(本来の)意味や、大きな効力がある。気持ちが穏やかになるとかリラックス効果が有るとかそういう副作用的な意味ではなく。」と理解している人間は、人口の1%もいないかなと思います。

 

そして、昭和以後において、「霊障か精神疾患かを切り分けしようとしている文化」に身を置いていた医師は、沖縄の医師のみかと思います。

 

現在では、沖縄でもこの「切り分けの試みの文化」は途絶えたような気もしますが、いかがでしょうか。

 

後述のユタアレルギーとでも言うものを知らない若い医師(且つ、文献調査や現地調査が出来る倫理観や力量を備えた者)が、また僅かにこの切り分けの試みの文化を復活させてくれるかなという全く根拠の無い期待は持っていますが。

 

また、本州でも「切り分け文化」とはいかないまでも、医師でも「この患者は霊障かもしれない。」と考える者が、本当にごくわずかですが、いるようです。

 

ただしこのホームページで挙げたり紹介できると思えるレベルの医師の情報は未だありません。

 

霊能に関して

 

※「ユタ」に関して

 

複数の文献や、聞き取りをした結果、戦後のユタアレルギーとでも言うもの(一部の、良くないユタかユタもどきに大金を支払った人が発生した時代)が過ぎ去り、人々、特に若い人々はユタに関して、(やや)フラットに見ているようです。

 

※他の(神霊憑依や除霊等に関する)霊能力者や法力者に関して

 

他の(神霊憑依や除霊等に関する)霊能力者や法力者に関しては、およそ、人々は以下の認識だと思われます。

 

→「イタコ」に関して

 

現代の多くの人々からすると、あまり信用されていない存在(認識)となってしまったと思われます。

 

→「拝み屋」に関して

 

現代のわずかな人々からすると、信用されている存在(認識)。

 

ただし、拝み屋に限らないが「精神的に未熟な方」や「患者や同業者を傷つける方」も、散見される。

 

これは民間の法力者、ユタ、霊能者、寺社の法力者、霊能者の中にもいるので、拝み屋だけの特有の現象では無いが。

 

仏教宗教者は、「精神的に未熟な方」が比較して少ないように思う。

 

これは仏教が一定の倫理教育も担っていたからと言えるとも思う。

 

→「真言密教者」「日蓮宗祈祷者」「古神道及び修験道系行者/神官」「ゴミソ」に関して

 

昭和時代までは、法力を保有すると言うように正しく評価されていたこの4系統の方々。(付け加えるならば近代以前は陰陽道も。)

 

これらの方々は、一部地域を除いた現代の多くの人々からすると、ほとんど知られていない存在になってしまったと思われます。

 

この方々も法力や精神性は玉石混交ですが、情報を精査した結果、一定の信頼は置けると思われる。

 

※ただしどの法力者(や精神科医や他の職業人全体)にも言えるが、「精神的に未熟な方、自分の誤りを気づこうとしない、認めない人間」は多くいる。「自分や人間の認識には誤りや危うさ、間違いが多い。」という真実に気づきやすい人間はどういう人間か。

 

例えば、

 

「相手と自分との関係の中で、思い込みや認識違いやボタンの掛け違えの場に必ず多く遭遇する環境にいる職業人(例として、何度も安全確認をする教習所の教官、安全運転をするプロのトラックドライバー、電話やメールで非常に注意を払わなければ困難な交渉において認識違いや破談が必ず起こると分かっている営業マン等)」などは、「自分の思い込みで、残念な結果になった。」経験を複数回体験せざるを得ないため、この真実や前提が理解できていると思う。

 

また、”仏教が好きな人”(人間の脳や感覚や認識の危険さや頼りなさを仏教書で知り、経文や懺悔文等を毎朝よんでいるような仏教者)も、「自分や人間の認識には誤りや危うさ、間違いが多い。」という真実や前提が理解できていると思う。これは仏教に限らず多分懺悔等をするような、どの宗教でも同じだと思う。現代においてそのような人間は0.1%程度はいるとおもう。1億人の中で10万人程度はいると思う。できれば皆さんも近くの寺に行って話を聞いたり、仏教書を読んだりしてみて欲しい。法句経や雑阿含経などを簡単に解説した本も図書館で借りられるしブックオフで100円で購入できると思う、他の本でも経典でも何でも良い。雑阿含経まで遡れば(五障等の女性)差別も流入以前であり現代でも(女性への賃金差別や障害者差別が依然残っているものの、そういうものを排除しようとする気運のある現代でも)マッチするのではないか。その方が幸せ(”世俗的な欲や金”以外の普遍的な幸せ)に気づき、生きられると思う。

 

話が戻り、沖縄の病院では(以前は)わずかに霊障か、それとも精神疾患かを切り分けていました。

 

俗に言う「医者半分、ユタ半分。」もこの流れかと思います。

 

そして沖縄では神がかりのことをカミダーリと言いますが、日本全体で見ても、「巫病」という単語があります。

 

wikipediaの巫病にもありますが「巫病を経てシャーマンとなった者は、神を自分の身に憑依させることができ」というのは過去の文献にある通り、当たり前のことです。

 

ただし、巫病を経ずにシャーマン(法力者)となり、神を自分の身に憑依させることができるケースの方が多いです。

 

神が人に憑依するのも多く文献に記載が有りますが、

 

「神様に商売繁盛を願ってお賽銭をして、神様が叶えてくれるかもしれないと期待するが、神様は人に憑依する能力は持ち合わせていない。」

 

と浅はかな者(特に色んな本を読まない者)は考えるかもしれません。

 

ですが、「商売を繁盛させる能力」と「1人の人間に(短期間)取り憑いて意識を操る能力」を比較すると、「商売を繁盛させる能力」の方が難しいことになぜ気づかないのか。

 

これだけ易しく説明して、これでも理解できないという人間はさすがにいないと思いますが。

 

そして、巫病などは当然ながら、うつ病、統合失調症、解離性障害では無いのですが、精神科医は100%誤診します。

 

端的に言えば精神科医には疑問を持つ、物事を調べる、という意欲も能力が無いため。

 

疑問を持たなくても、物事を調べなくても、誤診しても、そもそも誤診に気づく仕組みや責任を取る仕組みが無いため、精神科医からすると「時間の無駄」との認識なのかもしれません。

 

「霊障か精神疾患か」の切り分け例 その1 沖縄

 

 

切り分け結果として、統合失調症と誤診するのを避けられている。

 

「カミダーリ(神がかり)は、心因反応であり、統合失調症の症状ではない」とのこと。

 

多くの精神科医が統合失調症と誤診するのを避けられているという点では、少しだけ神霊に関して知識のある医師であるということが分かります。

 

ただし「心因反応」だと誤診していますが。

 

これらの、まだ、頭の柔らかいと言える医師が、半年間だけでも良いので、巫病を経たユタによる除霊や、他の宗派の法力者による神力を援用した除霊シーンに同席し多く見れば、真実に気づけると思います。

 

カミダーリ(神がかり)は当然ながら単なるカミダーリ(神がかり)で有って、心因反応でも統合失調症でもありません。

 

この医師は、もしかすると本物のカミダーリの人間を診断したことはなく、単に本物のように見えるカミダーリの人間を診断した事があるだけなのかもしれません。

 

とにかく、簡単なのは巫病を経たユタや、巫病を経ないまでも法力者となった者が行う「神力を使って除霊しているシーン」等を見に行くのが良いと思います。

 

「10年間動けなかった人間が、神力による除霊によって、その当日から元気に歩き回れる姿」を複数回、目の当たりにすると、法力者になる前のカミダーリ(神がかり)は、単なるカミダーリ(神がかり)で有って、心因反応でも統合失調症でも無いということが簡単に実感できます。

 

「霊障か精神疾患か」の切り分け例 その2 裏カルテ

 

Voice 2016年3月号の山折哲雄氏の著述。

 

 

「統合失調症と書きながら、裏カルテには、カミダーリ(神がかり)と記載している」とのこと。

 

切り分け結果として、「切り分けはできていないものの、両論の併記」が出来ている。

 

これも、真実にはたどりつけていないが、「統合失調症だと確信し誤診」していない点のみ全国の多くの精神科医よりはましだと言える。

 

「霊障か精神疾患か」の切り分け例 その3 入院の例

 

精神病院へ入院する例。

 

朝日新聞 東京(2018年12月14日 夕刊)「私の物語をたどって」より

 

 

カミダーリを含む霊障が、精神疾患と誤診されて入院というケースは全国にあります。

 

この沖縄のユタの方以外にも「霊感のある人が精神病院に入院させられる事例」は昔から有り、今なお有ります。

 

 

 

以下のユタの方も、沖縄以外の他府県だった場合、おそらく精神病と診断されて、敏感な体質の方には副作用がきつくて苦しい(リスパダール等)精神薬を飲み、しんどくなる経過をたどると思います。

 

※統合失調症などでよく処方されるリスパダールやジプレキサについては、「霞が関の犯罪「お上社会」腐蝕の構造」(本沢二郎氏、2002年)に経緯などが記載されています。その一部はwikipediaに載っています。

wikipedia - 全国精神障害者家族会連合会

 

日本イーライリリーの新しい非定型抗精神病薬「オランザピン(商品名:ジプレキサ)」の早期承認陳情を、1999年(平成11年)4月に、厚生大臣と有力国会議員に行っている。全家連理事を勤めた荒井元傅が、事務当局に実態調査させた時の資料によると、1997年(平成9年)から寄付金や接待を受けていたという。

会社が販路拡大したい場合、どのように攻勢して日本の認可団体(例えば厚労省の周囲等)が懐柔されていくのかというのは、昔も今もいつも通り古典的な流れが通用していると思って良いかと思います。
また精神薬のデータの信ぴょう性についてもよく調べてみてください。
本当に精神薬を服用する前には、精神医療の危険さについて多くの文献で知識を持ってください。
精神薬で健康や人生や幸福追求権が棄損した人々の声を聞いてみてください。

 

※精神薬を飲んでしんどくなった事例はGoogleMAPの精神病院の口コミに多く記載されています。

 

カミダーリ、巫病、神がかり、霊障、これら全ては、本当に精神病ではないため精神薬では治りません。

 

なぜこんな当たり前の事が知れ渡ってないかと言うと、誰も日本の霊障に関する文献、エビデンスを見ようともしないからです。

 

宮古島のユタに会って取材して来ました!御嶽と神々の島。

 

・巫病の最中には、わりばしや刃物で自分の手を突き刺す

 

・1600年頃の戦国武将の供養をさせられたそうです。「させられた」というのは、道を歩いているといきなり白髪の老人(神様の化身だそうです)に出会い、供養をするように仰せつかったからだそうな。

 

・ユタは神の言葉を伝える役割があります。その時は、意識が普段の状態から離れ、移り変わっているそうです。いわゆるトランス状態というものでしょうか。神懸かりの状態にある時も、自分としての意識は残っているそうな。シャーマンの中には、神がかりになっている間、自意識が完全に飛んでしまうタイプも多いので、これはなかなか意外な話でした。

 

「意識が普段の状態から離れ、移り変わっている」というのが普通の神がかりです。

 

神がかりほど重度の意識障害でなくても、生霊や死霊に憑かれても意識の乗っ取りは起こることが有ります。

 

これは昔からの文献に多く記載されているように当たり前のことです。

 

「霊障か精神疾患か」の切り分け例 その4 精神科医による間違った「霊障に関する文章」と、精神科医が苦言を呈する、精神科医の現状

 

「森田 正馬氏(1874年~1938年) 祈祷性精神病」

 

「門脇 真枝氏 狐憑病新論(1902年)」

 

どちらも完全な切り分け失敗例。

 

こういった医師が出版する、「霊障への誤った理解を広く周知する本や調査結果」は昔から現在にいたるまで定期的に公表及び刊行されている。

 

こういった医師の本の2大特徴として、「1. 霊障の文献(仏教書等)の精査が無い」「2. 法力の有るもの/法力を受けた者への取材を全くせずに記載された文章」という特徴が有る。

 

香川 修徳(香川 修庵)氏の一本堂行余医言(1788年)では「狐憑のうち、真の狐憑きは百千中の一二」とされており、狐憑きが実際に有る事を認めている。

 

いつの時代も(西暦800年代から2023年の今日においても)、狐憑きを治療する寺や神社は存在し、狐憑きの患者はいる。

 

その事実を知る医者は実際の事が書けて、その事実を知らない医者は実際の事は書けない。

 

ほとんどの医者は、その事実を確かめようともしない。

 

今でも精神科医や精神医学関係者が霊障に関する文章を発表する場合が有るが、何度も言うが「法力の有るものへの取材を全くせずに記載された文章」は、事実へたどりつかない。

 

精神科医は、「病気」の範疇で、考えてしまう思考が強すぎる。

 

「病理化」という言葉があるように、病気ではないものを病気や障害としてしまう(誤診してしまう)、及び情報やデータを我田引水するのは、昔も今も医者や、医者でなくても調査/検証/熟慮をしない者(調査/検証/熟慮に慣れていない者)の得意なことである。

 

LGBTも、つい最近まで度々「精神の病気」といったような失言が、報道で散見される。

 

医師ではないが、神道関係者がLGBTを精神障害と述べている例

 

2022年・・・神道政治連盟は同性愛について「回復治療の効果が期待できる」「依存症」や「精神障害」であり、「LGBTから抜け出すこと」などを論じた、事実誤認甚だしい差別言説が記載された論考を冊子として配布・・・

 

【声明】神道政治連盟国会議員懇談会による「冊子」配布に対する抗議声明より抜粋

 

そして一般大衆、それ以上に医師は何でもかんでも病気と診断してしまう傾向が強く有る。

 

「心身の不具合=病気か障害」としか医者は発想できない。

 

「心身の不具合=病気か障害、もしくは霊障、もしくは疲労、もしくは心身の成長を促すもの、もしくは・・・・」などとは考えられない。

 

その結果、医師は心身の不具合を「病気か障害」という範疇で考えてしまい、見当違いな穴を延々と深掘りするような治療方法しかとれなくなっていく。

 

以下の精神科医が精神科医向けに記載した文章にも統合失調症の誤診や精神科医について触れられている。

 

特に、「何でもかんでも統合失調症」、気分の上下がある性格なだけなのに「双極性障害」「躁うつ病」という診断結果をくだすのは、改めなければならないと思う。

 

また、受診する患者さんの方も、精神科医のくだす診断結果は、他のページにも記載したように誤診も全然有るため、「絶対的に信頼できる。」などと思わないこと。セカンドオピニオン及び色んな分野のまともな人間に意見を聴くこと。

 

日本中の精神科医の皆様へお尋ねします。

 

いまだ精神科での誤診、悪処方の横行する日本のこの現実をどう考えていらっしゃいますか?

 

何でもかんでも全部統合失調症で済ませるおつもりですか?

 

統合失調症は病気のくずかごではありません。

 

薬の副作用について真剣に受け止めていらっしゃいますか?

 

薬の副作用を、症状の悪化としてさらに増薬していませんか?

 

もし愛する方が発症しても同じような処方をされますか?

 

「善意の無知」も「悪質な親切」もどちらも許されるわけがありません。

 

無責任に何年も何年も多量の抗精神剤を処方され続けた患者さんがどうなってしまうのか。

 

その人生を償うことができますか?

 

固定観念を捨ててあちこちで訴え続けている患者の苦しみに耳を傾けてください。

 

どうぞどうぞお願い致します。

 

それが出来ないのなら今すぐ精神科から足を洗っていただけますか。

 

ストレスから来た「体調不良」を、主治医たちは3人がかりで「統合失調症」と診断しました。

 

どなたも見直しをしようともしませんでした。

 

安易に投薬された抗精神剤の副作用で失いそうになったいのち。

 

無駄にせざるを得なかった数多くの大切なもの。

 

人生の損失。

 

その責任はとっていただけるのでしょうか。

 

日本中の精神科医の皆様へ

 

森田正馬氏を筆頭とする、霊障に関する文章を発表してきた医師は、実際の霊障の患者を診ていないのに、分かった風な著述をしているのかもしれない。

 

「霊障とよく似ているけれど実際には精神疾患」の患者しか診たことがないのではないか。

 

特にこの森田正馬氏の調査結果としての「祈祷性精神病」は、今となっては害悪とも言えます。

 

現代の精神科医が「勉強しなくてもよい口実、幻覚や幻聴は統合失調症/解離性障害と診断して良い口実」となりうる、誤った調査結果である。

 

特に、祈祷性精神病は、「祈祷師が祈祷をすることによって発症する場合がある」という点のみ、現代ではクローズアップされてしまっている。

 

これは、調査が甘すぎて話にならない。

 

言わば祈祷性精神病の「祈祷師が祈祷をすることによって発症する場合がある」というのは「神力に離れていく」のが妥当かのように、及び健康を取り戻す秘訣かのように、誤解すると思う。

 

実際には、例えば巫病(法力者になる前の試練とも言える神がかりの一種)は、Wikipediaにもあるように「本人の信仰への帰属によって軽減されていく」ケースが有る。

 

いわば「(距離感や冷静な判断は必要であるが)神力に近づいていく」ことで健康を取り戻すケース。

 

※カミダーリの後、ほとんどの方が一旦は「神様はもうこりごり」と言う状態になります。その後、「神力に近づいていくケース」、または、逆に「神力に離れていき努めて一般生活を送ろうとされるケース」が有ります。

 

呪いとして呪術をかけられるなら心身を害する事もあるかと思うが、「祈祷によって、心身を害する」ということを強調している「祈祷性精神病」なる病名は、本当に誤った調査結果の集大成である。

 

※ただし、祈祷師まがいの「質の悪い祈祷」の事例のみを収集した場合、このような調査結果を導き出してしまうのもやむを得ないかもしれない。当時は図書館の蔵書も少なく(西暦1900年前後は図書館の創成期)、当然ながらインターネット検索も無い時代のため「質の良い祈祷師」を見つけるのは至難の業だったのかもしれない。

 

何度も言うが法力のある者と多く接して実際に除霊行為をその場で見たり聞いたりしていなければ、霊障か精神疾患かの切り分けは無理だと思います。

 

机上の空論や、医療界や医薬品業界でよく見られる「我田引水的なエビデンス収集」や「論文」を重宝したいだけの「ハゲタカジャーナルのフル活用」、「結論有りきの恣意的な”データ収集と論文作成”」は、単なる害悪なのです。

 

現代においても、「霊障か精神疾患の切り分け」をする医師もわずかにいますが、やはり法力のある者と接している訳ではないため、切り分けが出来ているとは言い難いです。

 

法力のある者と接して除霊シーンを見て、「寝たきりの者が、除霊の瞬間から元気になる」というのを複数回見学するだけで真実を目の当たりにできるのですが。

 

それくらい簡単なことなのですが。

 

また、霊障が神力で治った事が記載されている文献は多くありますので、それら文献をエビデンスとして収集し精査すれば良いだけなのですが。

 

改めて言うまでもないですが、今後、精神科医が霊障に関する文章を書く際には以下2点が必要です。

 

「霊障に関して(偏向的な物の見方しかできない精神科医以外が)書いた文章やエビデンスを精査」

 

「法力のある者に取材し同席し、神力を何度も見ること。例えば除霊シーン等」

 

まぁこの2点を行ったとしても、精神科医の能力では、どうしても我田引水してしまうために、正しい記述の文章を書くことは無理だと思いますが。

 

これ以上、精神科医による間違った「霊障に関する文章」が出ませんように。出ると思いますが。

 

まだ以下の医師の記載した霊障に関する文章の方が、調査対象に偏りがないだけ、良いと言えます。

 

ただし文章としては、神仏や霊に関する前提知識が少ない故の欠点は残念ながら有ります。

 

また、上記リンクの第二報のp.20には

・効果がなかった治療歴は、「医者の治療と薬」が最も多い。

 

・宗教等関連者を頼りにし、大半が成功。

 

と有り、医者よりも宗教等関連者の方が良い実績をおさめていることが分かる。

 

西暦800年から西暦1900年までの1100年間は、医師と法力者が融通しあって問題解決を担っていた

 

治療に関して、医師と宗教等関連者(のうち、法力修行をしている行者/法力者)の片方だけに依存しても意味が無い。

 

どちらも融通し合うのが当たり前。例えば

 

文化遺産を立て直す時に、単に一級建築士が担当すればOKというものではない。

 

一級建築士が妥当なのか、それとも宗教学を学び修行をした宮大工が妥当なのかは当たり前だが検討が必要。

 

これと同じように

 

精神異常で心身を立て直す時に、単に医師が担当すればOKというものではない。

 

医師が妥当なのか、それとも宗教学を学び修行をした法力者が妥当なのかは当たり前だが検討が必要。

 

西暦800年から西暦1900年までの1100年間は、医師と法力者の両方が担当していた。

 

西暦1900年以降の100年間は、ほとんど医師が担当している。

 

例えるなら両輪(二輪車)だった1100年間。片輪が外れて一輪車になってしまった100年間。

 

「本来は有った一輪を捨てて一輪車になったら、登れない道も有る。」

 

と言う当たり前の事を言っているのだが。

 

「生まれた時から一輪車しか知らず、なおかつ二輪車で成功していた事例が載っている本も読まない人間」には特に、信じてもらえない。

 

その結果、「医師に精神病であると誤診され、薬で治らず何年も苦しんだ。」という事例がどんどん増えてきている、実際には1度の除霊で治るのに。

 

真言宗の空海も鬼病(=霊障)について著書で説いている。

 

その流れもあり、法力者や行者は霊障治療や除霊について昔から普通にやっている。

 

昔はもっと多くの集団が有ったが、今は真言密教の一部の法力者と、「悪霊退散としての加持祈祷」を理解している日蓮宗の一部の法力者が、わずかではあるが、それでも最大集団なのではないか。

 

日本史における霊障の歴史を深く学ばない「医師」や「法力者」が、100%陥る罠

 

次は、医師だけでなく、法力者(霊能者)にも対する苦言です。

 

※以下は一般の方にはほとんど関係がありません。「罠」を仕掛けるのは悪霊のみであって、一般の方が体験する(長く体調不良になるレベルの)霊障のうち、95%は死霊や生霊のような人霊、残り4%が良い神霊、残り1%が悪い悪霊というパーセンテージです。

 

※パーセンテージはあくまで私の感覚です。「一般の方が、長く体調不良になるレベルの霊障に遭遇する確率」は1%程度(100人に1人)だと思います。そしてその「1%程度の方々の霊障」の95%は死霊や生霊のような人霊かと思います。

 

良い神霊でも体調不良を引き起こす

 

良い神霊でも体調不良を引き起こすのが巫病やカミダーリなどです。

 

巫病やカミダーリでなくても体調不良を引き起こす神がかりや神の行為は全然有ります。

 

ただし図書館や文献で真摯に調べ物をした事も無く、する気もない人間や法力者は、自分の物差しでしか物事を判断できないため、どのように言っても信じてもらえないと思います。

 

特に法力者の初級レベルの者は「神は万能」ゆえに「私は誤診しない。」いう思いが強すぎます。

 

法力者や精神科医に限らず、どんな職業でも常に「後から誤診を検証できる仕組みや存在」が必要なのは当たり前です。

 

商店でもどこでも、普通の人々は当たり前ですが間違えたら、その後に間違いを認めます。

 

例えば魚屋で品物の間違いがあれば謝罪なり代替の補償があるでしょう。

 

この間違いに対する仕組みが無いと「技術レベルの向上」を阻害するのは明白です。

 

「間違いを認めない及び間違いを検証する仕組みを作らない」という職業人と「間違いを認める及び間違いを検証する仕組みを作っている」という職業人の2通りの職業人がいますが、前者は精神が未熟(教育のなされなかった、10才程度の精神性)と言ってよいと思います。

 

前者はどんなに技術力が有っても、世間の中では淘汰されるべき存在であり、その職業人自身が精神研鑽をしないうちは、関わる必要性は無いかもしれません。

 

また霊障に関して特に留意しにくい立場であるから(こそ)、留意してほしいのは、以下の「霊に触れやすいが無防備」な方々です。

 

これらの方々の中には、令和以降においても不変ですが「霊障で心身異常や寝たきりに、さらに精神薬によって寝たきりが加速」というケースも有ります。

 

・因縁が起こるお寺に住んでいる。なおかつ、霊魂を認めない/霊障の備えをしてはいけない教え(浄土真宗等)のお寺の住職。

 

・既に因縁がある、又は、霊媒体質である。

 

この人々は駆け込み寺を持っておいたほうが良いと思います、霊障による体調不良になって精神科を受診し一生服薬することになっても、症状は治りません。

 

そもそも「霊魂、空海の言う”鬼病”、日本史における怨霊の歴史は嘘。」だと思われるのであれば、原因不明の体調不良(霊障による体調不良)後に一生、精神薬に自己の命運を託してもらっても全然構いません。

 

※できればこのような方々は霊障になる前の元気なうちに、日本の歴史的な文献にも多くの神/霊の実存に関する記載がありますので、図書館などで読み、まずは「文字情報の真偽を判断する力」を高めて頂ければと思います。

 

■罠1・・・神がかりは、個人の記憶と混ざり、発生する

 

これは医師は日本史を知らないのですから100%引っかかる罠で、神/仏/霊の本を多く読まない法力者(霊能者)も100%引っかかります。

 

※神/仏/霊の本を多く読む法力者とは、例えば、高野山大学卒業後のごく一部の真言密教者や、皇學館大学で文献を学んだ後に、体力回復の祓詞を実感したり、霊感の素養を磨く環境にいたようなごく一部の神官など。

 

※「体力回復の祓詞を実感」というのは、複数の事例があります。図書館にも祝詞辞典は置いてあるでしょうし、その中に体力回復や病気回復の祝詞が掲載されているかと思います。特に古神道系統の方は馴染み深いと思います。山蔭神道の山蔭氏の著書にも「祓詞で体力回復した。」との記載がありました。

 

一口にカミダーリといっても実際は心理的なもの(トラウマ)と複合していることが多いようです。その場合はただ調整しただけでは改善しません。またカミダーリでないこともあります。

 

カミダーリの対処について

 

上記のリンクの大意とは異なりますが、似ている部分もあります。

 

神がかり(沖縄では”カミダーリ”)は、その人間の「過去の記憶」も利用されます。

 

仏教宗派の開祖(釈迦、空海、親鸞など)や昭和の新宗教の教祖も含め、よく超常現象や神に遭いますが、その際には、その人の過去の記憶が引っ張り出されることも有ります。

 

例えば、日本での神がかりで、本人の過去の記憶に無い言語(英語や中国語など)で話しかけてくる神は滅多にいません。
あくまでも本人の記憶をもとに、神がかりが行われるケースが多数派です。

 

例えば、親鸞の前に聖徳太子が示現することがあっても、全然知らない国の知らない神様が示現することは滅多にありません。

 

そして個人の記憶のうち、神がかりで多く引っ張り出される記憶は、その人の「トラウマ」「強い体験」等の心を揺さぶるものや「神仏観」などです。

 

※詳細は、やはりユタや昭和の新宗教あたりの文献を見て下さい。上記の沖縄カミダーリの例も多く文章で見つかりますが、沖縄以外でも、時代としては昭和の新宗教あたりになると、教祖に起こった神がかりは、それこそ教義の原点のため文献が多く発行されて今も(特に国会図書館などに)残っていると思います。

 

※昭和の新宗教が勃興した時代は、新興宗教の玉石混交の時代とも言えますが、一定の注意を払えば、まともな宗教がどれかというのは簡単に判別できます。

 

新・宗教図鑑というサイトに、新宗教(新興宗教)などの一覧が掲載されている。

 

そして、医師や霊能者がどのように誤診するかと言うと、「”本人の過去の記憶”が混ざっているから、神霊の憑依ではなく、その本人自身の精神の動きによるもので、そのため本人に起因する精神病である。」と判断してしまいます。

 

例えば「この人は修行なるものに執心しすぎたのか、”神霊”のことをうそぶいている。”神との修行”とか言っている精神に異常をきたした人間だ。」という風に思い、精神疾患やノイローゼ等と判断されます。

 

そして、家族や地域の人間からも疎外される事例も有ったようです。

 

野狐という言葉がまだ有った昭和中期以前は特に。

 

野狐に関しては廃仏毀釈前の愛染寺等が発行した書類や資料に詳しく掲載されています。

 

そして「精神病院の入院経験者や統合失調症の方々は、よく神霊の話をすることは分かっている。」とは精神科医も認識しているのですが、「統合失調症だから、”幻覚や幻聴として”、神の声が聴こえるだけだ。」という、知識が無い人間の特徴である「主観による断定」しかできません。

 

これは文献による知識がほとんど無い法力者(霊能者)も、このような誤った判断を必ずしてしまいます。

 

そのため、神がかりやカミダーリを判断できる法力者は、かなり少ないです。

 

そして、万一、神がかりやカミダーリを判断できたとしても、上述のリンクで

 

”ユタ・カミンチュさん・ノロさんなど判断できる方に出会っても私の症状に対処できない方がほとんど”

 

と記載されている通り、「神がかりと判定した後の対処」ができる法力者も少ないです。

 

なぜ、一部の法力者が、特に沖縄の一部の法力者が「神がかりやカミダーリを判断できる」のか

 

※以下、「神がかり」「技能の高い悪霊」「単に、神様がついている状態」のそれぞれの切り分け方法、判別方法とも言える文章も併せて記載します。

 

はじめに、なぜ一部の法力者が、特に沖縄の一部の法力者が「神がかりやカミダーリを判断できるのか」と言うと、やはり複数の知識が有るからです。

 

沖縄の、昭和中期以前に生まれた法力者は、神がかりの際にはどのような状態になるかを、自分自身の体験及び伝聞及び書物で、事例を何個かは知っているからです。

 

沖縄以外の本州では、このように豊富に神がかりを実体験として知っている人はなかなかいません。

 

昭和の新宗教の教祖に起こった神がかりや、青森のゴミソさんの神がかりなどの事例が僅かに残るのみです。

 

※神がかりやカミダーリであると判断できない法力者ばかりではありますが、単に、「この人には神様がついている」と判断できる法力者は、多いです。

 

そして「神様がついている」状態の人は、別に神がかりのような「狂人のように町を歩かされるレベルの意識の乗っ取りや激烈な意識障害」は発生していません。

 

上述の男性の根間氏のケースのように意識をある程度乗っ取られて操られながら、町を歩かされたりするのは、神がかり、又は、技能の高い悪霊、の2つのケースのみだと思います。

 

根間氏のように、意識の乗っ取りの中で除霊させられたりするのは、技能の高い悪霊ではなく、神がかりかなと思います。

 

※「明確に指示してくるようなレベルの意識の操られ」は神がかりか、技能の高い悪霊によるものですが、明確に指示してくるようなレベルでは無いけども意識を操られるのは単に神の加護や、生霊、死霊、技能の低いよくある悪霊などに憑かれても、そのようになります。

 

■罠2・・・悪霊の「冤罪への導き」に簡単に引っかかる法力者(霊能者)

 

以下はわずかでも素養の有る法力者(霊能者)へ向けた文章であり、医師は閲覧不要です。

 

まず、ずる賢い(ある意味、高等レベルの技術を保有する)悪霊の場合、犯罪の証拠をなかなか残しません。

 

「犯罪の証拠を残さない」、これは悪霊に限ったことではなく、人でもそうですね。

 

ずる賢い(ある意味、高等レベルの技術を保有する)者は、犯罪の証拠を残さずに犯行を行います。

 

それを、法力者も、神そのものではないため、(あくまでも神の力を援用する者であるため、)まず見抜けません。

 

高等レベルの悪霊と対峙した経験のある法力者は、現代ではほぼおらず、そういう意味では、その経験が積めないために。

 

また、仏教本や陰陽道に関する本では事例として記載されていますが、それを読む法力者はほとんどいません。

 

原典が、絵図化やアニメ化される事の功罪

 

過去の文献及び仏教分等に真実が記載されてあり、それが派生して「伝記や物語、現代ではアニメになる例」は多くあります。

 

ですが、「伝記や物語、現代ではアニメになる」のは、人々に周知する手段としては良いのですが、デメリットとして、判断力の乏しい人間が、そのアニメの原典を読まない場合、伝記や物語、アニメになった途端に「フィクションである」と思い込んでしまう点が挙げられます。

 

現代では、判断力の乏しい人間ばかりになったため、今となってはアニメ化に、「原典を、大衆にとって分かりやすく意訳している」という本来のメリットは無くなり、このデメリットしかない気がします。

 

仏教本や陰陽道に関する本で事例として出てくる技能のある程度高等な悪霊のうち、よくあるパターンは、法力者や和尚と知恵比べするような事例です。

 

このような悪霊については、死霊や生霊のような豊富なケースと異なり、さらに怨霊よりもケースが僅少であるために、現代の法力者(霊能者)は過去の文献を開かなければ、まず遭えません。

 

そのため「悪霊が引き起こす冤罪事件」にはもう現代では対応する術がほどんど無いかもしれません。

 

日本の歴史の中で、悪霊に一番触れてきたのは「日蓮宗の悪霊退散」及び「陰陽道」だと思われるのですが、「悪霊退散のために、日蓮宗の一部の人間は法力を磨いている。」等と言おうものなら、「形だけのもので、悪霊退散などは中身は無いし、悪霊などと口にするのは詐欺師」と感じるのが現代人の感想ではないでしょうか。

 

ただし、悪霊よりも、核戦争を起こしかねない人間の方が数倍恐ろしい存在となってしまいましたが。

 

そして参考までに”技術としては高等な悪霊”というのは、他の霊や悪霊とは違い、人の意識もわりと深く操る事ができるレベルの霊です。

 

その高等な悪霊は無差別に、及び霊に敏感な者に、又は厄介な存在である法力者等に取り憑いて、体調不良にさせたり意識を乗っ取ったり、様々な現象を起こします。

 

そして、その被害者は、周りの人々から病気や精神病だと誤認されます。

 

冤罪の被せ方は、色んな本や文章を見てもらえれば載っていますが、そこまで緻密ではありません。

 

ですが、本を読まないために歴史を知らない法力者は、簡単に引っかかります。

 

みなさんも本を読んで、この文章は「正しい」「間違い」「半信半疑(5割は本当の可能性が有る)」の3つに分けるという事を繰り返し、判断力を高めていきましょう。

 

すると、周囲に過剰な迷惑をかける人間になることを防げると思います。

 

良い神仏による、「苦難」の見届け

 

最後に、これも法力者向けの文章です。

 

「苦難」の真相を見抜く事は、いつの時代も難しいです。

 

そのため正しく見抜くには、事前に多くの文献を読んで判断力を高めておかなければなりません。

 

お寺に来た、その被害者の苦難の真相までをも見抜くのが、より良い対応だと思います。

 

神仏は、お寺に相談に来る人の「苦難や心霊現象」を、前もって(お寺に来る前に)見届けている場合があります。

 

現代では、加害者だと思った人間が実は被害者だった等、かなり複雑な案件が増えていると思います。

 

しかしながら、それを見抜ける人間が、現代ではほとんどいなくなったように思います。

 

神仏は見抜いていますが、(法力者であったとしても)人間が見抜くことは困難です。

 

苦難について

 

仏教本や、沖縄のカミダーリの人の話では、「神仏が試練(苦難)を与える」と表現されていますが、「苦難は、神仏が与えたものでは無いけれど、苦難を見届けてはいる。」という方が正しいように思います。

 

というのも、現代では苦難によって死亡する方々(異常な労働環境、日本特有の過労死、学校でのいじめ等)はいらっしゃいますが、さすがにその苦難を神仏が与えているというのは、間違いだと思います。

 

苦難が有った結果、場合によっては神仏が介入するという順番に感じます。

 

「自殺して未成仏の霊となり、近親者に憑いて、憑かれた当人がお寺に行き、結果、成仏した。」というケースは別のページで紹介しているお寺のホームページの除霊体験談などでわりと見かけます。

 

この場合も、これは私の完全な憶測ですが、少しは神仏がお寺へ導くことも有るのかなと感じます。