悪霊を始末する方法

悪霊を始末する方法

悪霊を始末(退治)する方法です。

 

特に現代では簡単に、浅はかな指導者から修行を勧められて、魔に取り憑かれて(魔境や、禅病から派生した魔など)大惨事となる事に注意かと思います。

 

修行時の悪霊憑依(魔境)は、

・天台智顗の摩訶止観

 

・空海の秘蔵記

 

・座禅関連の文献

等、多くの文献に既に記載されていますが、素人に修行をさせる場合において、監督や保護人を無しで、配置せずに(霊障を発生しやすい・既に因縁が有る・霊感が有る等の)素人を、修行や修行まがいのことをさせるところが見受けられ、本来であれば密教寺などの豊富な悪霊観を理解している寺で、監督や保護の元で修行しなれければなりません。

 

また、「修行と信仰 - 変わるからだ 変わるこころ(2016年、藤田 庄市氏)」には、様々な修行者への取材とともに、違った側面からの「修行の危うさ」が記載されている。P.269の抜粋では「修行は危険・・・修行は人間の心身を危険にさらす・・・修行は人間を思索から遠ざける」との記載がある。

 

基本的には、高野山大学などの仏教系大学で、または皇學館大学や國學院大學などでの神道と、それと併せて何年も修行関係の古書を求めたり、その大学の図書館で文献をよく読んだり、密教寺での多くの文献に触れた後レベルの、修行に関する知識量のある人間が指導しないと危険かと思います。

 

全く危険性を知らず、遠隔で修行させようとしたりする霊能者もいると思います。

 

修行や神仏との接し方は、「その霊能者1人の経験」に依拠して物事が進められている事があまりにも多いですが、1人の経験などはほとんど経験値としては微量で、多くても80年程度だと思います。

 

まともな宗派の密教寺などのように、多くの文献(過去1200年分程度の全てとは言わないまでも)を読むことで、多くの経験者の経験を自分のものとし、その上で修業や神仏とのコミュニケーションにあたるのが妥当かと思います。

 

※また、リラックスや体験目的で滝に打たれる場合など、知識や「もしも」を重視しない寺に勧められるままに裸足で不安定な砂利や石のある川に入るか、または「「福岡県保健環境研究所 - レプトスピラ症に気をつけましょう」や各都道府県のHPの指導通りに、もしもの発症も事前に留意し、「体(特に足部)を保護する衣類や履物を身につけて水の中に入る」、または滝自体を辞退する等も考えて選択しましょう。

 

悪霊の取り憑きに関しては、悪霊や化け物に関する民話や伝説が有る地域にお住まいだったり、(先祖または自分に)霊感が有る方も注意しておいた方が良いかなと思います。霊感が無い方には、全く理解できない話かもしれませんが。

 

もうまともに指示を仰げる先輩はいません、いたとしたら密教系の数人程度だと思います。

 

よって、青森の広く言えばゴミソ関連の子孫や、沖縄のユタ関連の子孫(よく論文で見かける大阪府大正区の沖縄出身の方々等)が、対処方法も無く、指示も仰げずに、心霊現象だけは発生して非常に困っているという事例も実際にやり取りしてて聞いた事があります。

 

昔、鳥山石燕氏が集めた情報や、または日本霊異記などは今ではもう全く真摯にかえりみられず、面白半分でしか読まれない図画や文献となっていますが、中国の天台宗の開祖の摩訶止観の魔境の箇所は単なる悪霊についての取材報告で、有用な部分も多く記載されているのですが、これも信じない天台宗の方がいるとすれば、文献の精査や取材による検証によって「事実」を判明させるという基本姿勢が抜けていますね。

 

また仏教書が現代語訳された場合、時代が新しくなるにつれて、「神仏から本当にコミュニケーションが有った。」「本当に悪霊に憑かれた。」という部分は、修行者の「心的現証、心理現証、求道者としての真摯な錯覚」のように、原著では「単なる外的要因」の記載だった文章が、現代語訳された際に「真摯な修行結果としての、単なる幻聴や幻覚」方向の間違った補記がされているものもある。

 

特に「仏教書に記載される神や仏は信じるが、仏教書に記載される魔境や悪霊は信じない」という人も多いと思う。

 

文献の精査や、取材などで得られた情報の「精査力」を養わない場合、やはり正常化バイアス、エコーチェンバー、フィルターバブル、「ある事象を、”自分が理解したいように、理解する”」ということから抜け出せないと思う。

 

またゴミソ関連やユタ関連とは全く関係は無いけれど、「寝ている時などに度々悪霊が来て困っている。」という生まれつき霊感の有る方や、霊能初学者のような方、祖父母が霊能系だった方を毎年数人は見かけます。

 

この場合、神仏と既にコミュニケーションが取れている方であれば、画図百鬼夜行(鳥山石燕氏、1776年)に掲載されている中で、どの悪霊が来たかや、どのように「念」で悪霊を調伏するかを神仏が普通に教えてくれる場合もあります。

 

また、行者ではない一般の方は、法力(≒霊能力)の有る方に祓ってもらうのが良いかとも思いますが、正しい悪霊観を持ち合わせていない霊能者(古典や文献を読まない霊能者が多い)が多すぎる現代では、それも難しくなってきたとは思います。

 

このページの目次

悪霊を見抜けない霊能者

 

現在の霊能分野で悪霊が現れるケース

 

悪霊を始末(退治)する方法

 

 →蟇目鳴弦

 

 →鳴釜神事

 

 →九字

 

 →ウパニシャッド(古代インド哲学の文献群)

 

 →日蓮宗 悪霊退散としての加持祈祷

 

 →真言密教 真言や五部陀羅尼問答偈讃宗秘論など。及び修験道

 

 →天台宗(中国) 天台智顗 摩訶止観

 

悪霊を始末(退治)する方法:具体的な流れ

 

 → 一番大事なこと「恐怖心を持たない」「動揺しない」

 

 → 1. 意識の乗っ取り

 

 → 2. 意識(自分が考えていること)の読み取り

 

 → 3. 幻聴

 

 → 4. 幻覚(ある程度、意識の乗っ取りが進んでしまった際に発生する)

 

夢に現れる悪霊

 

昔の中国と、悪霊

 

 →日本に現存する最古の医学書「医心方」

 

 →「漢字:生い立ちとその背景」

 

悪霊を見抜けない霊能者

 

・死霊も生霊も怨霊も、「霊能者に気づいて欲しい」という想いで霊能者に現れますが、悪霊は、そうではありません。

 

・また、現代の霊能者は死霊や生霊の経験は多くても、悪霊の経験は少ないです。

 

この2点により、現代では悪霊は事前知識が無いと様相を見抜けません。

 

悪霊の除霊自体は神仏の力を援用するため可能ですが、様相や行動は、文献を読まない霊能者は全く気づけませんし理解できません。

 

そのため、患者に「悪霊がついている」と間違う霊能者も、「悪霊がついていない」と間違う霊能者も多いです。

 

さらに、「悪霊が寄ってきているだけの状態」と「悪霊が完全に憑依している状態」も切り分けないといけませんし、その悪霊はどのレベル(どこまでの巧妙、どのように神仏に擬態して姿を現すか、狡猾な思考や能力が有るか)なのかも、過去の悪霊に関する文献と対比しなければ理解できません。

 

そして、神、悪霊、生霊、死霊が、人に憑依した際、どれも体調不良や悪い事象を引き起こす事があります。

 

この体調不良を、「人にとっては悪いことだから、これは神、生霊、死霊ではなく悪いもの=悪霊が引き起こす」と誤認する霊能者も多いです。

 

正しい悪霊観は、様々な文献を読むことで養うことができます。

 

もう今では寺社の者も霊能者も、有名な事象である「釈迦のもとに悪魔がやってきたのは事実か嘘か」程度も検証することなく業務を行っていると思います。

 

現在の霊能分野で悪霊が現れるケース

 

現在の(一般分野ではなく)霊能分野において、悪霊が来るケースは以下の2点が代表的です。

1. 悪霊が妨害したくなる存在の者に対して、来る。

 

2. 悪霊が利用したくなる存在の者に対して、来る。

 

「1. 悪霊が妨害したくなる存在の者に対して、来る。」について

 

これは初級霊能者(霊感と倫理観を多少ずつ保有している程度)にはよく悪霊が来ます。しかも頻繁にきます。

 

自分の知る限りだけでも、毎年、何人も発生しています。

 

「いじめられっ子が柔道を習うかもしれない。」

 

こういう時に不良が来るのと似てますね。

 

ただし、悪霊よりも人間の方が恐ろしいです。

 

悪霊は思考が単純で、原爆なんて開発できません。

 

その先について

 

そして、この過程を経て、「霊能方向に行く人」、「行かない人」、「その間をとって奉仕活動や世界平和を祈る人」の3つの方向が見受けられます。

 

・ユタ関係の方は、「霊能方向に行く人」と「霊能方向には行かずにつとめて一般の生活を大事にする人」の2通りかなと思います。この場合は、悪霊きっかけ・神がかり(カミダーリ)がきっかけ・巫病がきっかけという話を聞きます。
霊能では昨今、ユタの方々が一番多くの文献が発行されていますので情報を集めやすいです。私としては青森のゴミソの方々を尊敬しています。現代ではもう文献でしか出会えないかもしれませんが。

 

・大阪府大正区のユタから派生した一般の方は、この方々は大学生の研究論文の対象に度々なっていますので情報も見つけやすいですが「霊能方向には行かずにつとめて一般の生活を大事にする」方が多いかもしれません。この場合は、神がかり(カミダーリ)きっかけが多いです。

 

・仏や密教系の方は、「霊能方向に行く人」、「その間をとって奉仕活動や世界平和を祈る人」の2つが多いかもしれません。この場合は、学問きっかけ、修行きっかけ、死霊や除霊きっかけ、悪霊きっかけという情報が有ります。

 

・神や神道系の方は、悪霊に憑かれた事がきっかけで霊能を志すというのは聞いたことがありません。修行きっかけか、神がかりきっかけのどちらかが多いかなと思います。

 

そしてこれもユタほどでは無いですが、仏や密教系に比べて文献などの情報は多いです。

 

それらを見る限り、過信、信念があり、文献は読まない(または精査しない及び、少しの文献を我田引水する)という人が多いです。

 

これはなぜかは分かりません。

 

また、文献精査が無い中での「神への畏怖や憧れのようなもの」が有るために、事実誤認(特に、良いことを神のご加護と思い込みやすいし、悪いことを、神による罰だと思い込みやすい)もあるかなと思います。

 

近代(昭和など)の「神がかりから霊能に行った人々」に関する文献はかなり多いですが、それらを見てもそのように思います。

 

昔は神道系の霊能者の方が、古事記や日本書紀あたりからよく勉学しておられたと思いますが(平田篤胤氏の弟子の宮崎大門氏や悪霊退散などで有名だった吉田神道など)、現代では神道で文献精査もしている人は多いですが、神道+霊能+文献精査を備える方はいないかもしれません。

 

これらの神がかりから霊能に入る方は、文献や倫理観の勉学なしに霊能に従事する場合、後年になって衰えたら、周囲は人間性に惹かれている訳では無いため、人が離れやすいです。

 

そもそも、近代の神道系では、「文献が好きではなく、単純な人」に神がかる(神が降りる)ケースが多いため、なぜなのかは神のみぞ知ると言ったところかと思います。江戸時代頃までに存在していた、修行や勉学の後に、神力が備わるというケースは近代では、いらっしゃいますが少数派です。

 

そのため「過信」や「何でもかんでも神のご加護という思い込み」等が発生しやすいのはしょうがないかもしれません。

 

最終的に依るべきところが、文献でも自分の探査能力でも事実調査能力でもなく、「神」しかないため。

 

「神」が最終回答してくれると言うことは、文献で情報精査力を磨かなければ誤診する、探査能力を本気で磨こう、という思いが、他の職業のように神に答えを聞けないし責任も人間のみが負う仕事と比べて、そういった思いが湧いてこないのかもしれないですね。

 

本で勉学しなくても、答えを先生に聞ける。

 

これでは「文献による修行や、情報を読み取る、精査するという修行」自体が思い浮かばないのもしょうがないという側面があります。

 

江戸時代の神道家、例えば宮崎大門氏くらいの勉学や霊能が有って欲しいものです。

 

「2. 悪霊が利用したくなる存在の者に対して、来る。」について

 

悪霊が利用したくなる存在の者とは

・「a. 低俗な霊能者」や

 

・「b. 既に実力の有る霊能者や権力者の付近にいる者」

です。

 

これらは文献でも現代の情報でも見ることができます。

 

このaとbともに、

 

・立場が大衆より上であるため、間違った「指導、教義、霊魂観、道徳観」などを、大衆に容易に広めるられる。特に権威に弱い人間は従う傾向が有ります。

 

・他人から注意されたり咎められることも立場上殆ど無く、知識や事実観察よりも主観や神仏のお告げの自己解釈を最優先する(押し通せる)存在

 

です。

 

「間違った教義、霊魂観、道徳観を、大衆に容易に広めるられる」という点で言うと、理性で判断できない凄い事や自分の理解を超えた超常現象は、大衆は容易に心酔し、その人の超常現象以外の言動や環境をも、尊敬し、かなり簡単に信用してしまいます。

 

例え霊能力で雨を降らせて、農業従事者からありがたがられても、尊敬するのは早すぎます。

 

その霊能者の倫理観を測ってから、尊敬するかしないかを判断しなければなりません。

 

そしてaとbともに、言うならば、霊能者とは呼べません。

 

巧妙で狡猾な悪霊の場合、利用しがいの有る者や、まさかと言うような意外な人物にも憑きますので、この時は発覚しにくいです。

 

そしてこの場合は悪霊が完全に意識を乗っ取っている状態ではなく「悪霊が寄ってきているだけの状態」です。

 

そのため、「”私自身”で考えた結果としての言動」だと思いこんでいたものが実際には「”悪霊に巧妙に誘導されて”考えた結果としての言動」だったと言うことが起こります。

 

もっとわかりやすく言うと、「”私自身”で考えた結果としての言動」だと思いこんでいたものが実際には「神のご加護や先祖のご加護に巧妙に誘導されて”考えた結果としての言動」だったと言うことが起こるのは、寺社の方なら経験したり見聞きしたことが有るかと思いますが、この神霊に依る作用と、悪霊(≒悪い神)に依る作用とでは当然ながらはあまり変わりは有りません。

 

※さらに巧妙で狡猾な悪霊は(医療用語ではない)悪心を伝播させる事ができます。悪霊の意識体が、1人の人間だけではなく、複数の人間を覆ってしまう事例で、相似する事柄が後述の医心方14巻などに記載がある。

 

※また、良い神が「悪霊の行為」を見ていたり、「悪霊の行為」を利用している事もあります。沖縄では巫病の際に憑依されて、自分自身の身体に刃物を突き立てるという行為を行う事例が紹介されていますが、これに相似しています。良い神が、自傷行為を勧めるならば、もはやそれは良い神とは言えないかと思います。ただし一方では過酷な修行で法力を磨くという行為も存在します。特に昭和までは荒行も多く見られ、生死を命運に託すような滝行も行われていましたし、山折哲雄氏の記載によると、昭和中期以前の青森のゴミソの方々のように自分自身の肌を火で焼く等も。現代では良い神が原因の、修行としての自傷や障がい行為は、まず見られません。神霊に対する不敬行為によって体調悪化になる例は昔から現代まで複数事例があります。

 

また、多くの仏教書で見られる「四魔」も多くの人が混同していますが、中国の天台宗開祖(高祖)の智顗による「摩訶止観」では当然ながらこれら四つが全て、内なる魔や煩悩に依る魔とは言っておらず、四番目の魔は外から来ることが分かる。

 

「分かりにくい事象」については、色んな人が広義の解釈をしてきたが、鬼や魔も例外ではなく、後から後から他の人が広義の解釈を含めている事に注意が必要です。

 

外からくる悪霊(=魔)については天台智顗の摩訶止観や、竜樹菩薩の大智度論や、不空氏の理趣経以外にも仏教書に記載されています。

 

このような悪霊と宗教についての文献は、日本では仏教とキリスト教で多く見ることができるかと思います。

 

また、悪霊との因縁がどのようにして起こるかについては、今昔物語などの色々な古典に記載されています。

 

※悪霊は、怨霊や死霊や生霊とは全く別物です。

 

娯楽の原典に触れない者

 

「悪霊」についても、その史実をもとにした娯楽(映画やアニメ等)になった瞬間に、胡散臭く思ったりフィクションだと断ずるような、文献やエビデンスの精査もできない現代人がいるとすれば、この人には為す術無しであろう。

 

この人は結局、真実も、真実の幸せも気づけ無いであろう。

 

この人はおそらく「お金と欲」が幸せの最優先事項だと感じて、事実ではなく主観をもとに依拠し物事を認識する程度の人であろう。

 

悪霊を始末(退治)する方法

 

悪霊を始末(退治)する方法は、大きく分けて、「討伐」か「教唆」です。

 

ただし危機が切迫しているケース(悪霊に、あなた自身の意識・視覚・聴覚が乗っ取られている最中など)でしたら、基本的には「討伐」を選択するしかないかもしれません。

 

蟇目鳴弦

 

神道。弓を射る。 宮崎大門氏「幽顕問答鈔」(1839年)にも記載あり。

 

国書データベース-幽顕問荅抄(ゆうけんもんどうしょう)-大洲市立図書館

 

現行の本では「神道行法の本 - 日本の霊統を貫く神祇奉祭の秘事」(2005年)にも記載あり。

 

現在では神道の者で死霊や生霊のことは知識が有っても、悪霊を理解し対峙している者はまずいないと思われる、蟇目などの形としての行法を知っている者は大勢いると思うが。

 

「神道大辞典」(1941年)では、比岐目口授(ヒキメクジュ)と有り、「蟇目は・・・妖魔を伏す・・・」との記述が有る。

 

国会図書館オンライン - 神道大辞典

 

また、東京国立博物館デジタルライブラリーで「蟇目」と検索すると、吉田家の「神道鳴弦蟇目大事」などの図解も含んだ資料が数冊収録されている。

 

鳴釜神事

 

神道。神仏習合を保持している寺も含む。

 

除霊を掲げている寺社で、他の業務として鳴釜神事を挙げる寺社は複数ある。

 

古神道の行者の方々や密教行者の方々などが現在でも利用している。

 

九字

 

修行系の行者が利用する。

 

九字は特に、そこから多くの寺社や宗派に派生した。

 

忍者なども九字を知っている。

 

現代でもこれで悪霊を退治したケースも実際に有る。

 

陰陽道

 

しかしながら、悪霊対策として「九字」を使うのは、現代では数少ない。

 

陰陽道など。

 

新陰陽道叢書(2020年)第1巻 古代編の表紙の絵図にも九字が採用されている。

 

また「反閇」などは、京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ - 若杉家文書に記載がある。

 

「禹歩」は、現存する最古の中国医学文献「五十二病方」でも既にみられる。

 

陰陽道に関して読みやすい本としては「陰陽師の解剖図鑑(2021年)」などが有る。

 

ウパニシャッド(古代インド哲学の文献群)

 

湯田 豊氏「ウパニシャッド-翻訳および解説」(2000年)。

 

ウパニシャッドでは特に「息」が重要視されていることが分かる。

 

また、悪神や、鬼神(アスラ)等の記載がある。

 

対抗する際には、「息」と「詠唱」などの記載がある。

 

「詠唱」とは、効験の有る呪文等を、節をつけて詠み上げる、唱えるの意。

 

ある程度は仏教の法力者のやり方と相似するのではないかと思うが、どうだろうか。

 

関連論文は以下。

ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド, I, 3,1-28

 

I, 3,1-21

 

ここでは神々と鬼神たちの争いにおいて「口のなかの息」がウドギータとして鬼神たちを破滅させることが述べられている。

 

人間の感覚器官の機能はすべて悪によって貫かれているけれども, 口のなかの息だけは悪によって貫かれず, 死を超えて存続している。

 

I, 3,1-7

 

われわれは口のなかの息がウドギータとして悪・死を滅する呪術性をもっていることを知っている。

 

日蓮宗 悪霊退散としての加持祈祷

 

これは現代でも存続しているため、多くの行者の話を聞き、また文献を見て欲しい。

 

「にっぽんの仏教-エイムック2018」(2010年)にも記載がある。

 

・木剣加持で魔を払う。

 

・「五段の邪気」・・・死霊、生霊、野狐、疫神、呪詛の5種類の邪気があると示している。

 

野狐や動物については、日本には多くの伝承が有る。

 

「狐七化け、狸八化け、貂(テン)九化け」等。

 

ただしこれらの多くの伝承を、「精神医学の観点から」「民俗学の観点から」などと結果ありき、先入観ありきで調査しても、誤った調査結果を流布することになり、害悪なだけであろう。

 

真言密教 真言や五部陀羅尼問答偈讃宗秘論など

 

密教は、真言密教に限らず、悪霊を降伏させる方法について多くの文献、記載がある。

 

密教は「悟り」も「心霊現象」も詳しい。

 

そして「不思議なこと」を実験/経験で、実証するという方法という当たり前の方法も採用している。

 

心霊現象を前提として、それに対応する「壇」が設けられる。

 

ただし現在では目を見張る密教者と言っても何人おられるだろうか。

 

「密教」で、経験も見識も高くあられるのは、奈良県 葛城市の金剛山赤不動明王院の院主様や京都府 京田辺市の真言宗 妙見山 誠願寺の和尚様が挙げられるかと思う。

 

また、大阪府豊能郡 威徳山金剛寺の和尚様が、大日経や金剛頂経の現代語訳を密教の真髄ページにて掲載されていらっしゃる。

 

「大日経」(7世紀頃か)

 

悉地出現品第六の記載(胎蔵界 大日如来の真言)。

 

「全品 現代語訳 大日経・金剛頂経」(2019年)には以下の記載がある。

そのとき毘慮遮那世尊は四魔(煩悩・五蘊・死・天)を降伏する金剛の真言を説いた。

 

なうまくさまんだぼだなん あびらうんけん
南麼三曼多勃喃 阿毘羅吽欠

 

(尽十方の諸仏に帰依したてまつる。地・水・火・風・空)

 

「秘蔵記」「五部陀羅尼問答偈讃宗秘論」等

 

「弘法大師 全集 第四巻 実践編」(1984年、筑摩書房)には、これら「秘蔵記」「五部陀羅尼問答偈讃宗秘論」等が収録されている。

 

魔や魔王、悪魔の特徴や性格、調伏する方法などが複数回、出てくる。

 

また、素人にも参考になる記載もあれば、素人が参考にしてはいけない記載もある(壇に関して等)。

 

悪霊は、「修行」や「信仰心」を逆手に取って陥れてくるというのがよくある。

 

そして、はっきりと外からくる魔という記載もあれば、内外の魔を一緒に説明している部分も有る。

 

また、修行者や行者(いまだ学や経験の浅いもの≒自分ではすぐに悪魔を払えない者)が悪魔に取り憑かれた場合なども記載がある。

 

本当に、霊感の有る人などが、気軽に1人で修行(写経や滝行や禅行等)を始めるのは、容易に悪魔に取り憑かれる事もあるためお勧めしない。

 

これを勧めている寺社は2023年現在も未だに有り、その危険性に気づいていない。

 

特に仏道を浅く知っているだけの霊能者は、素人に対して1人での修行を気軽に勧めてしまう。

 

下記の秘蔵記 P.81のように行者の卵や修行し始めは1人で行を行うことは危険で、これは以下の坐禅儀(慈覚大師 長蘆 宗賾、1338年編纂)の編纂に書かれているように「楞厳経」、「摩訶止観」、「修証義」以外にも多くの文献に記載されており、また、「不虞」の事故が起こりうると書かれている。

 

坐禅儀

 

然り而して道高ければ魔盛んにして、逆順万端なり。

 

但だ能く正念現前せば、一切留礙すること能わず。

 

楞厳経、天台の止観、圭峰を修証義の如き、具さに魔事を明かす。

 

預め不虞に備うる者は知らずんばある可らず。

 

また、密教の特徴とも言えるが、悪霊退散についても、色んな宗派が有るが、密教が一番、知識が必要でハードルが高いとも言えるかもしれない。

 

この本にも、「実際に効験を出すためには、そんなに多くの知識は必要ない」とも記載がある一方で、やはり密教者になろうと思うと覚えることが多い。

 

これは密教系の欠点とまでは言わないが、密教修行において「修行しても、神仏の効果が思うように上がらない事を想定して、どんどんハードルが上がっていった。」と言うのも一因かと想像している。

 

田中公明氏の著書にも似たような記載があった。

 

例えば、金剛頂経に記載されているように、釈迦が大日如来になる際に、「真言の回数は何回でも良い。」と言っているのに、時代が下るにつれて、真言を何千、何万と言おうというようになっていっている。

 

「秘蔵記」

 

内容は、密教用語の解説など。

 

P.81 修行者、行者や施主に、外の天魔鬼類などの邪気が入った場合は、息災法や調伏法の観想が有効である。

 

※ただしこれもある程度、経験と知識が必要で、まだ、後述の天台智顗の摩訶止観が示す「悪霊との対峙方法」の方が基礎的で、実践しやすい。

 

「五部陀羅尼問答偈讃宗秘論」

 

鬼神や魔について、さらに野干(野狐類)も記載されている。

 

P.114 悪魔

 

P.139 魔王が修行者を悩ませる

 

P.148 印で悪魔軍勢は、おのずから消滅する

 

P.174 人々は鬼神にまとわりつかれる

 

P.187 悪魔鬼神全滅、三角の壇。

 

※壇や調伏、護摩については現代でもインターネットや文献に多く記載がある。

 

P.201 魔王、内なる魔と外からくる魔を区別しない記載

 

P.202、203 魔王の変身、書簡や珍しいものを献ず。勇者に悪魔が来て恐怖させる。真言は本体と作用が1つ。魔王の住処について。性格は嫉妬深い。野狐の王を打ち砕き。

 

P.207 壇の設置で、悪魔が来る。方角と、来る鬼神など。

 

※鬼門方向である北東は伊舎那天。

 

高野山 霊宝館

 

これら六天を引き連れ伊舎那天が守護する東北の方位は、太陽の恵みが少なく湿度の高いところで、病や悪運の潜むといわれる鬼門にあたります。

 

その鬼門にあたる東北に凶暴な神々を従える伊舎那天が護法神として祀(まつ)られる意味には、仏法(ぶっぽう)に帰依したこれらの凶暴な性格の神が善神になり鬼門を守る事を期待してのことでしょう。

 

P.208 鬼神は数多くこの世に。

 

P.229 地獄、責心すれば罪除去す。清水に加持して骸骨に浴びせる。

 

※現代人が思っている以上に全然、今でも悪霊が存在しており、本当に過去の文献に西暦800年から現在に至るまで、真実が何度も何度も記載されていますが、それが事実かどうかを検証する人間は一部の行者や密教者を除いて、ほとんどいなくなりました。

 

「平城天皇灌頂文」(822年)

 

P.336 三論宗、八不空性、三毒四魔を焼き尽くす猛火であり、無益な議論の雲を吹き払う暴風。

 

※四魔のうち、天魔だけが外からくる悪魔。

 

以上。

 

このように密教では、調伏、護摩、壇、結界などの多くの知識と経験が有り、解説本も多い。

 

本当の、密教行者さんが増えてほしく思っている。

 

「調伏」について、wikipediaには以下のようにある。

調伏(ちょうぶく/じょうぶく)とは

 

・調和制伏という意味の仏教用語

 

・内には己の心身を制し修める。

 

・外からの敵や悪を教化して、成道に至る障害を取り除くこと。(及びそのための修法)

 

また修験道側にも共通する箇所も有る。

 

文献で言うと修験道護摩祈祷法(石村 龍勝氏)には「生霊死霊除金縛法」が載っている。

 

この金縛法は神仏秘法大全(柄澤照覚氏、2000年)にも掲載が有る。

 

ただし、密教も修験道も、形骸化している側面があり、加持祈祷、及び悪霊観や調伏について、教示できる師僧が現在ではほとんどいないと思われる。

 

いらっしゃったとしても真言密教の数人くらいかなと感じるが、どうだろうか。

 

特に霊能関係で一定程度見られるのが

・自己による継続的な倫理観向上や、文献精査などの最低限のこともしていない。

 

・自信や自尊心は高い。

という人々。

 

悪霊に憑かれたり、神仏がコミュニケーションしてきて間もない(3~5年以内程度)方々は、1人で焦ったり、情報を探したりしていると思うが、まともな師やまともな先生がいない場合、

・現代で神がかりに遭っている方の情報のうち、精査に値する情報

 

・まともな文献

 

・神仏

を師としたり、判断材料としたりするのが、進め方の一例かなと思う。

 

その際の日常生活の過ごし方や心構えなどは以下の摩訶止観などのできれば「昔の仏教書」あたりが良いのではと思う。

 

摩訶止観には悪霊対策や、日常の気持ちの持ち方など書かれているし。

 

「昔の仏教書」というのは、お釈迦さまの時代から、日本への仏教伝来までに書かれた文献。

 

仏教伝来以降は、「他の宗派のここが嫌だとか、他の宗派のここが駄目とか、争論」みたいなのを含んで(他宗派を反面教師として)仏教書が記載されている側面も有るから。

 

お釈迦様という大木がどんどん枝分かれする前の、幹に近い部分は、戦争の時代ではあったけれども、平和的な著述になっていると感じる。

 

天台宗(中国) 天台智顗 摩訶止観

 

「摩訶止観」(594年)は、中国の天台宗の開祖である智顗が講義し章安灌頂が著述した文献。

 

「昭和新纂 国訳 大蔵経 宗典部 第13巻 摩訶止観」(東方書院の三井晶史氏(三井諦心氏)。1932年。1991年復刊。国会図書館オンライン - 摩訶止観)には、P.493から、内なる魔と、外から来る魔について詳細な記載がある。

 

現代でも外から来る魔は実在が確認されており、特に真言密教者にとってはよく遭遇する霊とも言える。

 

この摩訶止観は、真言宗 空海の十住心論、日蓮宗 日蓮上人の太田入道殿御返事、浄土真宗 親鸞聖人の教行信証の化身土巻など多くの後の仏教者が引用している文献でもある。

 

特に真言宗 空海と日蓮宗 日蓮上人は、「霊現象による病気」を説明する際にもこの摩訶止観から引用している。

 

摩訶止観の「魔」に関する部分は以下。

 

魔(魔境/魔事)について

 

「四魔」のうち1~3の魔は内なる魔、4番目の魔の他化自在天魔のみが外から来る魔。

 

他化自在天魔(愓鬼、時媚鬼、魔羅鬼)の時媚鬼は幻覚などで揺動、扇動する。

 

「二時媚發者,大集明,十二獸在宝山中,修法縁慈.此是精媚之主.權応者未必為惱,實者能亂行人.
若邪想坐禪,多著時媚.或作少男少女老男老女禽獸之像.殊形異貎,種種不同.或娯樂人,或教詔人.」

 

色んな者に姿を変える。

 

また、時間帯によって、どのような動物として出現するかも記載が有るため、もし既に自身に霊感や素養が有る中で、初めて修行する場合は必ず、意識を乗っ取られても、このような文献等を勉学済みで悪霊の識別能力の有る先達や、対応や保護できる監督者や保護者を配置し、充分過ぎるほど留意すること。

 

本来であれば自宅などではなく先達のいる密教寺などにて行う方が適切かもしれない。

 

※この幻覚や幻聴が、精神病や統合失調症と誤診される。

 

※この三鬼は他化自在天魔の「3つの眷属」なのか他化自在天魔の「3つの能力なのか」等は記載されていない。記載されていないということは、この三鬼の「様相」は取るに足らないもので(著述するような事ではなく)、この三鬼が引き起こす「行為」が重要であるという事が分かる。

 

※「他化自在天」についても、現代では浅い情報や間違った情報しか流布されていないが、1996年の東京大学での田中公明氏の授業の中の理趣経に関する箇所で解説された部分を、他化自在天の特色として3つに整理すると以下です。

 

能力:「他の者に化ける能力が有る」

 

目的(と能力):「人の快楽を奪って享受できる」

 

妨害行為:「快楽の享受の妨げとなるため、仏教を妨害」

 

そのため、外から来る魔(=悪霊)は、脳の部分を共有する=人に憑依することができるというのが分かります。

 

※仏教医学が当初参考にしたインドの医学書「スシュルタ サンヒター」(紀元前700年~400年の医療情報の総集編。成立は400年以前。)にも憑依現象は普通に掲載されているが、これを現代人は、「憑依」とシンプルに理解できず、精神病であると曲解する様子。スシュルタサンヒターでの憑依は、霊や魔ではなく神(阿修羅や夜叉など。表記では鬼神)。

 

魔の対処方法

 

摩訶止観に記載されている、魔に対抗する方法は3つです。

 

1. 叱る(注. 魔についての、知識が必要。無知ゆえの恐怖に負けてはならない。現存する最古の中国医学文献「五十二病方」でも鬼病の対抗法として記載がある)

 

2. よく観察する(注. 魔の行う、根本は同じような技や詐術を観察し対処する。とかく「魔」は、修行や信心を逆手に取り、利用し、破滅に導くというのがよくある手法。信仰心の強いものは、やはり神仏の言う事を嘘と思えず盲信しがちであるという弱点を付かれている。「いつもの神仏のお告げと思ったのが、実際には魔が神仏を偽装していた」というケースも、他の多くの文献で注意喚起している。)

 

3. 強い気持ちで臨み、拒否する(注. 意識を乗っ取られることのないように。ただし初回から数回程度は特に悪霊の種類によっては容易に意識を乗っ取られ惨事を起こすであろう。これは通過儀礼であると他の文献に記載がある。結局「魔」を理解したり対峙するには、1度でも魔に負けて意識を乗っ取られなければならない。乗っ取られないためには、「死んでも(意識を)守り抜く」という強い気持ちや、「悪を忌避する」という日頃の”善心”が必要。)

 

※これらは(注釈以外の本文は)、天台宗の開祖が述べた言葉(詳しくは原著 摩訶止観を参照)であり、現代でも魔に対する基本の心構えと言えるが、そもそも天台宗の開祖を否定、その言葉をよく精査せずに否定するかのような、浅はかな現代人が存在するとすれば、この現代人は為す術無し、付ける薬無し。

 

※また、意識を乗っ取られている時に、「息」「呼吸」を止めると、「意識の乗っ取られ」が和らいで、自分自身の意識が戻ってくる場合も有る。これらは個人個人が実践で理解していくしかないかもしれない。

 

悪霊を始末(退治)する方法:具体的な流れ

 

悪霊や野干(野狐など)に取り憑かれて意識を乗っ取られた時に、どのように対処するかの具体的な流れです。

 

意識を乗っ取られるということは、悪霊が、「あなたに、素質がある修行者になってほしくない。邪魔したい。」ということですので、頑張って切り抜けましょう。

 

あまり素質の無い、「単なる除霊等ができるだけの霊能者や寺社の者」には、悪霊はそこまで邪魔してきません。

 

一番大事なこと「恐怖心を持たない」「動揺しない」

 

一番大事なことは、

・異次元の世界に来た感覚になるが、「恐怖心を持たないこと」

 

・動揺を誘われるが、「動揺しないこと」

 

の2点です。

 

助けにならなくて、逆効果になる周囲の「素人」

 

また、周囲にいる「素人」に助けを求めた場合、逆に動揺が広がり、逆効果となって本人の「恐怖心」も「動揺」も増幅されてしまい、それが悪霊の栄養となり、悪霊の乗っ取りがさらにひどくなる事もあります。

 

悪霊に取り憑かれると・・・

 

まず、悪霊が周囲に来ている状態であれば、色んな調伏方法で退去させることができますので、これも機会が有れば方法を述べます。

 

しかしながら、既に(寝ている時などで)悪霊に取り憑かれてしまった状態となる事もあります。

 

そして悪霊に取り憑かれるとどうなるかと言うと、基本的には

 

1. 意識の乗っ取り

 

2. 意識(自分が考えていること)の読み取り

 

3. 幻聴

 

4. 幻覚(ある程度、意識の乗っ取りが進んでしまった際に発生する)

 

などが行われます。

 

1. 意識の乗っ取り

 

意識の乗っ取りの初期では、「これは自分が考えたことなのか、悪霊が考えたことなのか」が分からなくなっていきます。

 

具体的には、「今から・・・として(例えば悪霊対策として)・・・をしておいた方が良い。」という確信が生まれるのですが、普段の状態では、これは当然「自分が発想し、自分で考えた」からこういう結果の思いにたどりつくのですが、「意識の乗っ取り」に遭っている場合は、実は、これは、悪霊が発想し、悪霊が考えた結果の思いです。

 

現代で言うと催眠術にかかっている状態が一番近いかなと思います。

 

また、「革新的なひらめき」や、「悟りを開いた気持ち」などが生まれ、これで悪霊に勝てるという安堵なども発生します。
全て、悪霊による「動揺への誘い」ですので、ぬか喜びしないで下さい。

 

とにかく、落ち着いて、落ち着いた呼吸をしましょう。

 

「革新的なひらめき」「革新的な悪霊対策方法」がどんどん生まれて、いち早く行動したくなりますが、全て、悪霊の罠ですので、とにかく、落ち着いて、落ち着いた呼吸をしましょう。

 

「匂い」について

また、何らかの「匂い」(線香の匂い、死体の匂い、ガス爆発の匂い等)によるひらめきなども起こりますが、これも悪霊の罠ですので、とにかく、落ち着いて、落ち着いた呼吸をしましょう。

 

2. 意識(自分が考えていること)の読み取り

 

自分が考えている、悪霊対策などが、全て悪霊側に読み取られます。

 

そのため、「そんな事をしても無駄」と誰かに言われた気にもなります。

 

この読み取りが行われていると自覚できるというのはある意味、気持ち悪いですが、これはしょうがないです。

 

無駄に、気持ちを高ぶらせないようにしましょう。

 

3. 幻聴

 

色んな種類の幻聴が有ります。

 

脳に直接入ってくるような幻聴、普段の携帯電話の通話のようにはっきりと音声で聴こえる幻聴など。

 

しかも、意識の乗っ取りも同時に進行しているため、「幻聴がおかしな事」という自覚を持てない事もあります。

 

4. 幻覚

 

幻覚が見えはじめた場合、ある程度、意識の乗っ取りが進んでしまっていますので、自分を家の柱などに縛りつけ(縛ってもらい)、食事のみ与えてもらう程度が良いかもしれません。

 

この時は、この状態に慣れている密教僧(単なる密教僧ではなく、経験が多く、倫理観の高い密教僧)などを呼んでください。

 

呼べない場合は、悪霊に取り憑かれた本人が、ある程度の知識や経験の有る「修行者」「行者」の場合は、数日は食事を与えて待っても良いでしょう、頭の中で悪霊と戦っている状態(意識や脳の取り合い)のため。

 

警察に通報した場合は、精神病院への入院となります。

 

夢に現れる悪霊

 

また、魔は寝ている際に夢で現れる事も多い。

 

後述の医心方の14巻目にも有るが、「魘される」(うなされる)という読んで字の如く。

 

やはり就寝時は入り込まれやすい。

 

・「太平聖恵方」(992年)56巻目の治鬼魅諸方

 

・陳言氏「三因方(三因極一病証方論)」(1174年)

 

・羅天益氏(1249年~1293年)の「衛生宝鑑」

 

などに記載がある。

 

「夢」の原因の切り分け方法

 

切り分けが難しい以下の4つの夢。

 

1. 単なる夢

 

2. (親鸞聖人や弘法大師空海や多くの人が体験した)夢告

 

3. 就寝時に来る死霊

 

4. 就寝時に来る魔

 

この4種類をどう切り分けるかについてですが、まずは多くの文献を参照する際に、「単なる夢」と「夢告」との違いを理解することから始めるのが良いと思います。

 

「夢告」に関しては非常に多くの文献が有る。

 

次に、「単なる夢」と「就寝時に来る死霊」との違いを理解するのが良いと思います。

 

これは、真言宗等の寺社のホームページで記載している、除霊の体験談に頻出している。

 

詳細は除霊を掲げているお寺などページの寺社一覧を参照。

 

次に羅天益氏など多くの著者が記載する「夢に現れる魔」について検証と傍証を行い、理解するのが良いと思います。

 

昔の中国と、悪霊

 

シルクロード、インド、中国などから渡ってきたものは、日本には多い。

 

漢字、仏教、高度な技術(金属加工、水田稲作など色々)。

 

「神仏」も「除霊方法」も中国から来た事例は多い。

 

「呪」「悪霊」を学ぶデメリットと、「呪」「悪霊」への対抗方法

 

「呪」「悪霊」に関しては、危害をなすきっかけともなるため、紹介してはいけない書物も有る。

 

ただし、これらの「危害をなすもの」への対抗方法を所持するためには、密教僧などのある程度の経験と知識と倫理観が形成された後に、知っておかなければならないという部分も有る。

 

日本に現存する最古の医学書「医心方」

日本に現存する最古の医学書「医心方」(984年、丹波康頼氏)。

 

この医心方には、中国の文献から色々な治療方法が引かれている。

 

慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション - 富士川文庫(古医書コレクション)医心方. 巻第十四

 

※丹波氏については、山蔭神道の山蔭基央氏の著書によると「山蔭家は、歴代皇室に仕えて信任あつかった古神道家であり、わが国最古の医書『医心方』を著わした丹波朝臣康頼は山蔭家の第四十七代である。」との記載がある。

 

そして、この医心方の巻第十四については、「読む際の注意点や危険性」を挙げておいた方が良いと思う。

 

まず、広範な知識や見識を持っていると(例えば密教者やチベット密教に見識が有る場合)、仏教書である「理趣経」について特に問題なく読むことができる。

 

しかしながら、学の浅い者にとっては「理趣経」は面白半分に奇異に捉えてしまうか、危険な書物になる。

 

この「医心方」についても、学の浅い者にとっては「理趣経」同様に面白半分に奇異に捉えてしまうだろう。

 

特に、見識の有る密教者程度の「悪霊観や実際の体験」が無いと、この「医心方」に記載されている悪霊対策が全然理解できないと思う。

 

また、先述のように「悪心は伝播する」という事に関連し、この医心方の14巻には「鬼の気に犯された場合の治療法」が記載されている。

 

そして、魘されて眠りから覚めない場合の治療法も記載されている。

 

「魘」について

 

「魘」という漢字は、読み方は魘(えん)、魘される(うなされる)、魘われる(おそわれる)で、意味は、睡眠中に物の怪に襲われること。

 

また「魘魔」(えんま)の意味は、夢に現れる悪魔。

 

以下、医心方 巻14 蘇生・傷寒篇(1998年、丹波康頼氏、槇佐知子氏 翻訳)をもとに述べる予定。

P.25 中悪 →これは(中国の原典は)鬼としているが、これは私としては鬼では無いと思われる。

 

この文献は、基本的には「病気を悪霊のしわざ」としてしまっている事例が多いが、悪霊を知るのに有用な部分も有る。

 

「漢字:生い立ちとその背景」

 

白川 静氏の著書「漢字:生い立ちとその背景」(1970年)。

 

これも医心方同様に、呪術や密教を体感したり、よく知らない識者には批判対象にされる文献。

 

できれば「白川静を読むときの辞典」(2013年)も一緒に読む方が理解が進むと思う。

 

ここにも邪念や悪霊に対して、昔の中国の方々がどうように対処していたかが掲載されている。

 

漢字の成り立ちを通じて、仏教者や神道の方々に知っておいて欲しい事柄も掲載されているが、もう現代では密教僧や陰陽師など一部の人間にしか理解できないかもしれない。