このページの目次
・「体験+外からの知識」による理解について
・原典や一次体験者に取材する大切さ
・本を読む時の注意、「事実か嘘か」
・ウパニシャッド(古代インド哲学の文献群)からの忠告
・超常現象への心酔
・「情報」に惑わされずに生きる方法
・真言宗や密教の、体験者と知識人
「理解」には
・自分の実体験のみで、ものごとを理解する
・自分の実体験+他からの情報(例えば伝聞や本や新聞)で、ものごとを理解する
・他からの情報(例えば新聞や本)で、ものごとを理解する
という事があると思う。
上記の2個目の、「自分の実体験+他からの情報(例えば伝聞や本や新聞)で、ものごとを理解する」というケースにおける、情報精査について考えてみたい。
a.本をほとんど読まない人(霊能者や医師を含む)は、「文献の精査力」という事も考えたことが無いだろうし、これは「視野が狭い」という「道」に関する初歩的なハードルを超えないまま一生を終えるため論外として、
b.次に、自分の体験や自説を補強するため、「我田引水のためだけの文献引用」をする人(霊能者や医師を含む)も多く、これも「文献の精査力」とはかけ離れているため、この人は「ある程度人から信望されて、自尊心が勝手に上がって」一生を終えるため枠外として、
※この行為(我田引水のためだけの文献引用)はインターネットの登場で、小学生でも簡単にできるようになった。図書館のみの時代と比較すると。
c.その次の段階の、例えば色んな「道」に取り組む場合、「自分で経験し、なおかつ本を読む人(精査力が向上するゾーンに入っている人)」への注意喚起として、
・まず、自分自身で「経験」や苦悶の後の華やかな「実績」を増やすと、「文献の精査力のうち、門戸を開けて文献精査するという力」は衰えていく。
自分自身で経験や実績を増やすと、ある意味で偏向的な、専門的な見え方になってしまう。
そして取るに足らない文献や文章を「すぐに排除できる力」も、ついてしまい、「自分にとって有用な文献」からの情報を重視してしまう。
自分の経験と似ている文献や文章は、今の時代、いくらでも探せる。
ある自分の経験
・「例えば神が除霊方法を教えてきて、その通りにしたら除霊できた」
・「例えば勝ちにつながる柔道試合の考え方、進め方、取り組み方が構築できてきた」
・「例えば、患者に何度も投与して効果が有る医薬品の処方が分かってきた」
という自分の経験があって、それを補強する似た事例が専門書及び色んな「道」の本から見つかった。
この場合、本の知識によって、自説や自分の経験が補強(理解や意味付け)されるというメリットが有る。
ただし補強してしまえば、もはや「事象」を「その事象そのもの」とはもう受け止められなくなっている。
これには欠点が有る。
「道」を進めていく際に、「何100年間も積み重ねてきた先人の情報や知識」+「自分の経験」で歩んでいくのが妥当なのは当たり前だけれども、
自説や自分の経験の、「再認識・補強・理解促進」のために文献を引くことは、「その事象そのもの」だった事象に対する認知を、歪めてしまったり、「理解できる/理解しやすい範囲で理解してしまう」という点に留意しなければならない。
よく言われるように、やはり野原に咲いている物体を「花」と認知してしまうと、もはや「野原に咲いている物体」を正しく理解することからは、一方では、遠のいてしまうというのにも似ているかもしれない。
※「道」を進めていく際に、「何100年間も積み重ねてきた先人の情報や知識」+「自分の経験」で歩んでいくのが妥当というのは、どの道を進む場合にも参考書やテキストに書いていると思う。天台智顗氏(天台教学)では「教観相資」だと思われます。
神がこう言ったから、信じる。
仏がこう言ったから、信じる。
空海や親鸞や開祖、中興の祖がこう言ったから、信じる。
文献や情報の「精査力」がつくまでは、こういう信じ方はしてはいけない。
お釈迦様は「再現できてこそ真理」と仰っている。
そのため、原典に触れたり、一次体験者への取材、自分での実践が大事だと思う。
空海も親鸞も、「原典に触れる、また、源流を知る」という希求は大切にしていたのではないか。
そういった開祖の時代よりも、現代では簡単に情報を得られるため、仏教で言うと、ウパニシャッドの文献を読んだり、サンスクリット語やパーリ語での真言を知ったり、阿弥陀如来の源流のアミターユスを知ったりするのも良いのではないか。
本を読む時や、行為を推量する時の注意を挙げます。
12才のAさんとBさんがいます。Aさんが、光の速度の99.5%の速さの宇宙船で宇宙旅行をして、5年後に地球に戻ってきます。
すると、Aさんは17才、Bさんは62才になっています。
この話を、誰も証明していない時点で、あなたは「嘘」「真実」「半信半疑(50%は本当)」、どの状態になりますでしょうか?
子供の科学のWebサイト - 宇宙から戻ってきた人が、年を取っていないことがあるのはなぜでしょうか?
また、「嘘」だと考えている人に、あなたはどのように「事実である」と説明するでしょうか?
無知を信奉する者は、漆黒の闇に陥る。
されど[謬れる]学識に満足する者は、さらに甚だしき闇に陥るに似たり。
ウパニシャッド(1990年、辻 直四郎氏)P.168
霊も超常現象のように思えるかもしれない。
そういう人にとっては、1度の霊体験(=1度の超常現象)で、心酔が起こる。
あくまでも単なる1度の霊体験を、過度に凄いものだと捉えてしまう。
これは新興宗教や各団体で起こりうることだと思う。
神秘体験ができても、それは単にそれ以上でもそれ以下でもないし、ましてやそれだけで、その人を崇拝する必要も無い。
その神秘体験は、単に今の科学では説明できないだけで、あと1000年後には小学校の理科で習う程度のことかもしれないし。
→1次体験者は、「Aさんの感覚」。例として「やかんが熱いために、手を引っ込めた。」
→2次体験者は、「Aさんの脳」。「やかんが、火傷するくらい熱かった。」
→3次体験者は、「Aさんの言語能力」。Aさん「Bさん(新聞記者やネット記事等)、私がやかんを触ったら、熱くて少し火傷しました。」
→4次体験者は、「Bさんの脳」。「我が社のスポンサーであるやかん工業の都合もあるから悪くは書けないし、”Aさんは、自分の過失としてやかんを触ったらしい”という記事にしよう。また、私の見識も披露したいので、”私が発見した、触っても火傷しないやかんの持ち方”も書こう。また、”やかんは熱いから危険と謳う電気ポット社”や、その系譜に連なるC新聞社に容易に批判されないようにしたい。」
→5次体験者が、「Bさんの言語能力」。
→6次体験者が、読者。
教訓
・1次体験者はAさんではなく「Aさんの感覚」である。3次体験者の「Aさんの言語能力」まで進むと、もう事実は改変されている時もある。
・特に「金銭的な複雑な利害」が関係すると、一段とややこしくなる。
我が社の商品、例えば医薬品や医薬部外品を売りたい。
研究者による研究で事実と試験結果(エビデンス)を産み出し、論文発表しよう。
一見、ハゲタカジャーナルには思えない論文誌に、エビデンスを発表。
著者の、様々な意図のもとに、調査をし、過去の文献を引用し、本を発表する。
ただし、「物事Aは真実である。」「物事Aは嘘である。」と、どちらの本も、多くの文献引用をして書けてしまう。過去の史実でも。
一般読者は、こうなると物事Aは真実か嘘かは、判断できないのではないか。
判断する方法
1. まずその著者の「ポジションやポジショントーク」、「見識」、「思考の柔軟さ」を傍証するのが始めかなと思う。
この場合、著者が「見識」を、偏向して深めてしまうと、「思考の柔軟さ」は無くなっていくことに注意が必要。
2. 次に、「引用されている文献は、どの程度信頼できる文献か」を傍証する。
3. 都合の悪い事柄や文献は、そもそも廃棄され、伝承もされない事に注意。
例えば、その戦争犯罪者や、または現代でも一定規模の組織が、もう公開したくない事実などは、文献や情報が廃棄及び非公開になるため、そもそも引用できない。
この状態になると、「物事Aが真実」と主張する文献が0冊、「物事Bが嘘」と主張する文献が100冊となる。この場合は、「文献が廃棄された事」を検証、傍証していくと、「文献が廃棄されたという行為が確認されたため、物事Aは真実という可能性がさらに高まった。」とも判断できる。
多くの体験と知識を持つ真言宗や密教の方々のご記載やブログを紹介します。
→大日経、金剛頂経、理趣経の現代語訳と解説など。
→多くのご経験と知見がお有り。
→多くの実践と見識がお有り。